南斗屋のブログ

基本、月曜と木曜に更新します

なぜか碁が大流行 嘉永6年10月下旬・大原幽学刑事裁判

2023年11月06日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永6年10月下旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(大意)。

嘉永6年10月21日(1853年)
#五郎兵衛の日記
小貝野村の利兵衛殿が借家を訪ねて来た。昼過ぎに帰村するとのこと。
晩には大家が来て碁を打った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
大原幽学や有力な門弟が江戸にいるため、裁判関係者以外の者も江戸を訪れています。記事に見える小貝野村(現千葉県東庄町)の利兵衛もその一人のようです。

小貝野 · 〒289-0637 千葉県香取郡東庄町

〒289-0637 千葉県香取郡東庄町

小貝野 · 〒289-0637 千葉県香取郡東庄町



嘉永6年10月22日(1853年)
#五郎兵衛の日記
朝食後に幽学先生から「肥を作るには念を入れて行うのだぞ」と話しがあった。
大家は今日も昼から碁を打ちに来た。晩も同様。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
大原幽学は理念的なことばかりではなく、農業の具体的なことまで教えていました。武士ではあるものの、放浪生活をしたことで、農業先進地域のノウハウを見聞きしてきたのでしょう。
大家は今日も碁を打ちにきました。よほどの碁好きと見えます。


嘉永6年10月23日(1853年)
#五郎兵衛の日記
昼前から伊兵衛父と良祐殿は碁を打っていた。昼過ぎ武左衛門殿は小石川の高松様のところへ行った。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
裁判の為の江戸での生活費をおさえている幽学一派。家の中で囲碁を打つのは出費抑制策には合致してますね。

嘉永6年10月24日(1853年)
#五郎兵衛の日記
良祐殿、源兵衛殿と外出し、深川八幡、洲崎弁天、三十三間堂を見物。夕方に借家に戻る。品川まで御台場を見物に行った者もいた。幽学先生は浅草の歯入師に行かれた。先生がお帰りになられた後、一同で泉の湯に行く。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
今日は物見遊山の外出。深川八幡(富岡八幡宮)、洲崎弁天(洲﨑神社)は現存。
江戸三十三間堂は、富岡八幡宮の東側にあった仏堂ですが、明治初期に廃されて堂宇は破却されて現存せず。

嘉永6年10月25日(1853年)
#五郎兵衛の日記
早飯を食べ、芝泉岳寺四十七人像墓所を拝見。次いで海上禅林(東禅寺)を拝見。御台場の一番から三番までの小屋を高輪から遠眼鏡で見る。海岸は御台場普請、諸色物揚場にやらいを結い、大造なことである。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
今日は泉岳寺、東禅寺を見た後、御台場工事を見学。御台場は、ペリー来航を受けて、海防のため造設。嘉永6年(1853)8月末着工。五郎兵衛らが見たのは、着工から約2ヶ月で工事中の状況。昼夜兼行で進められた大プロジェクトの姿です。

嘉永6年10月26日(1853年)
#五郎兵衛の日記
平右衛門殿(荒海村)は早朝から磯部様(田安家の代官)に面会に。「裁判が長々と続くのは嘆かわしいな。村からは何人江戸に来ているのか。毎日どのくらいの費用がかかっている?」と細かいことまでお聞きになられ、誠にご親切なことである。代官からは、「裁判を担当していた菊地は長崎へご出役となったぞ。新しい担当がわかったら教える」とのお話しもあった由。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
・荒海村(成田市荒海)は田安家の所領。田安家は幽学一派に裁判になる前から同情的で、裁判となってもそれは変わりません。何くれとなく心配してくれています。裁判の担当が変わったという情報は貴重。担当は未定で、これでは裁判も当面進みません。
・本日の記事にでてきた「裁判を担当していた菊地」は菊池大助のこと。日記では長崎にご出役としか書かれていませんが、ロシア使節プチャーチンとの応接のための出張でした(高橋敏「大原幽学と幕末村落社会」)。菊池はこの後、外国奉行となり、勘定奉行まで出世します。

嘉永6年10月27日(1853年)
#五郎兵衛の日記 
高松様は高輪で御役目。幸左衛門殿と源兵衛殿が高輪にご挨拶に。幽学先生、言い忘れたことがあったと、小生を高輪まで遣わす。日暮れに戻る。幽学先生は両国で柳行李を買って来られた。夕方、力蔵様来られる。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
高松様は幕府の御小人目付の職にあり、ペリー来航時も重要な役を仰せつかっていました。現在は高輪での御役目。御台場建設等に関わる仕事なのかもしれません。門弟三人が高松様には挨拶に行っていますが、幽学先生はノンビリと買物。


嘉永6年10月28日(1853年)
#五郎兵衛の日記 
昼から幽学先生は買い物に。幸左衛門殿は小石川へ。伊兵衛父は散歩。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
幽学先生は今日も買い物。小石川(高松家)の対応は門弟幸左衛門に任せてしまっているようです。

嘉永6年10月29日(1853年)
#五郎兵衛の日記
昼前に仲谷村(現印旛郡栄町中谷か)の村役人二名が来られる。大森の役所から「長沼村から江戸に出た者が、山形屋から宿替えをしたのは問題である。出府している者にその旨伝えよ」とのこと。急ぎ長沼村に戻ることとした。夕刻、鎌ケ谷の鹿嶋屋に着き、泊まり。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
五郎兵衛に緊急事態発生。山形屋から宿替えしたことが、淀藩大森役所にバレて、役人は怒っています。五郎兵衛、対策を立てるため、急遽長沼村(現成田市長沼)に戻ります。長沼村までは一泊二日の旅程です。


嘉永6年10月30日(1853年)
#五郎兵衛の日記
朝、鎌ケ谷を出立。昼過ぎに長沼村に着く。元俊医師宅に行くと、良左衛門君が逗留していた。山形屋の宿替えが問題となっていることを話す。元俊医師「俺も江戸に行こう。明日よんどころない用があるので一日待ってくれ」。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛、長沼村に到着。元俊医師は奉行所には病気ということになっているので、今回江戸に出ていないのです。さすが元俊決断が早く、江戸に行って善後策を講じることになりました。

旧暦に31日はありませんので、 #五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 はお休みです。




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする