嘉永6年11月23日(1853年)
#五郎兵衛の日記
日出前に起き、(徳川家定への)将軍宣下の御登城を拝みに行く。良佑殿、源兵衛殿、伊兵衛父、傳右衛門殿と共に大手から拝む。水戸の御隠居様やその他大名がお祝いで登城。御道具、衣服等は美麗である。
御勅使が五頭の馬でお上りになられたのを見て、大手から桔梗御門へ回った。
諸大名衆の下座場所では御召馬、御道具飾りが誠に立派であり、筆舌に尽くしがたい。
高松様がお忍びで、神田松枝町の借家に来られ、夕方には帰られた。
(コメント)
・徳川家定への将軍宣下。将軍宣下(せんげ)とは、天皇が武家政権の長であり日本の統治大権を行使する征夷大将軍職に任ずる儀式のことです。
・12代将軍徳川家慶は、嘉永6年6月22日に亡くなっています。因みに、この年はペリーが来航した年でもあります。ペリーが浦賀に停泊したのは、嘉永6年6月3日であり、東京湾を離れたのは6月12日ですから、家慶の死はペリー来航騒動の直後のことでありました。
13代徳川家定への将軍宣下は、この年の11月23日のことです。
・この日記の著者五郎兵衛は現在の千葉県成田市長沼という地方の一農村の農民。大原幽学を師と仰いでおり、大原幽学と共に奉行所から呼び出しを受け、江戸に滞在しています(呼び出された者は奉行所の許しがなければ、村には戻らず、江戸滞在義務があります)。今風にいえば、被告人としての立場で故郷に帰ることを許されていないという感じになりますが、五郎兵衛にはそのような立場に有り勝ちな悲壮感は全くありません。五郎兵衛の仲間も同様。江戸に出てくることができてラッキーとばかり、江戸名所を行きめぐります。これは五郎兵衛に限らず、裁判で江戸滞在となった者の共通の行動だったようです(高橋敏『江戸の訴訟』)。
・さて、今回が見たのは将軍宣下。それにしても、将軍宣下があるのを五郎兵衛たちはどのようにして知ったのでしょう。五郎兵衛日記にはこの点について何ら記載がありません。これだけのビッグイベントとなると御触が出るのでしょうか。そうだとすると、かなりの人数が江戸城周辺に集まったのでしょうね。
・五郎兵衛たちは、まず江戸城の大手門あたりに陣取っていました。そこへやってきたのは「水戸の御隠居様」。現代ではこういうと水戸光圀公を思い出してしまいますが、この当時は水戸斉昭公のことです。五郎兵衛は、「水戸の御隠居様やその他大名がお祝いで登城」と記しており、水戸斉昭公以外は「その他」扱いです。水戸斉昭の人気が庶民レベルにまで浸透していたことが分かり、とて興味深い。