体調不良続く 文政12年5月下旬・色川三中「家事志」
土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第四巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年5月21日(1829年)
・駿河屋清兵衛殿が来られた。「覚」を持参されたので、日記に写した。
・昨夜佐助の親が菓子を持って挨拶に来た。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「駿河屋清兵衛」は、春米屋月行事で今月の月番です。春米屋月行事なる役が何をするのか不勉強のため分からず。「覚」の内容が米一升の代金を121文1分で売りたいということなので、米の売り値を決める役なのかなと思いますが、この辺り全く知識がなくよくわかりませぬ。
覚の内容⇒本ブログ末尾付1、付2
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年5月22日(1829年)曇
・谷田部の「きさ」が急病とのことで人が来た。即刻与兵衛をその者と共に谷田部に行かせた。
・飯塚(親戚)から筍をもらった。
・夕方、川口の向横田治右衛門の末子が川に落ち亡くなった。
・寺嶋なを死す、片野村の手賀宗仲老死去す。
・東覚寺の芝居願いは認められたとのこと。
○田宿町の安右衛門方に加賀の者が多数滞在していた。人別にも入れられていない。御上から度々そのようなことのないようにとの仰せがあることでもあり、田宿町の飛子兵衛が責任者となり、毎月20人を幕府の御用人足として差し出すようにとのご指示である。飛子兵衛が願人として願書を提出した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
・子どもが川に落ちて亡くなったということから、訃報を書きとめています。「手賀宗仲」の名が見えます。三中は行商に出たときに手賀宗仲宅で泊めてもらっています(文政11年1月19日条)。片野村(現石岡市片野)に住んでいたのですね。
○田宿町(三中の住む町)に不法移民がいたという記事。江戸時代の不法移民は宗門人別帳に記載されていない人のことです。北陸地方は浄土真宗の影響で人口が多くかった為、人別に入れない形で人を集める人もまたいたのでしょう。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年5月23日(1829年)雨少々降る
・利兵衛殿が、代参も兼ねて三夜様へお参りに行った。
・両町(中城・東崎)の油屋行事からの覚えを手に入れたので、日記に写した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
・「利兵衛殿」は三中の叔父で、三中が町役人に就任してからは、薬種商の仕事は利兵衛殿にまかせています。
・「三夜様」は二十三夜尊のことです。旧暦23日の月待ちをする習慣があり、土浦では小松(現土浦市小松)の月読宮二十三夜尊が有名です。
・油屋行事からの覚えは、本ブログ末尾の付3参照。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年5月24日(1829年)
・宍塚九右衛門殿から米2駄、北条から米1駄が届いた。春からこれまでに麦と米を合わせて20俵ほど買った。
・菅間村の利助(利右衛門の倅)から薬をほしいとのことで人が来たので、薬を遣わした。
・夕方から大風が吹き、木や家に損害が出た。深夜には少し静かになった。雨は降らず。
新田の隣にある柳の大木が倒れた。植木や屋根などが大破したところもある。
#色川三中 #家事志
(コメント)
菅間村(現つくば市菅間)の利助は色川家
の元従業員。文政10年9月朔日条では勤務態度が良くなく、不埒との評価を三中からされています。おそらくその後解雇されたのではないかと思われます。どうも具合が悪いらしく、薬を求めてきています。なお、菅間村から土浦までは片道10キロ以上あります。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年5月25日(1829年)快晴
昼過ぎから西風が吹いた。俗に言うところの大凶だというが、如何。
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨夕から大風が吹き、天候不安定です。大木が倒れ、屋根が大破したところもあるなど損害も出ています。今日も強風だったのか、風の方角が悪いのか、大凶で運勢が悪いのではないかと思案しています。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年5月26日(1829年)
三中先生、本日休筆です(27日まで)。
#色川三中 #家事志
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年5月27日(1829年)
三中先生、本日休筆です。明日再開です。
#色川三中 #家事志
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年5月28日(1829年)晴
・本日、病気でまた体調が良くない。
・口上を書き留めた。
口上
一 今日、中城・東崎の両町で絹布を使用しないようにとの仰せがあった。
右の通りご承知ください。
五月二十八日 入江(名主)
各様
#色川三中 #家事志
(コメント)
・名主名義で口上が出されています。土浦では
絹布を使用しないようにとのお達しです(「中城・東崎」は土浦を構成する町の名前)。このような奢侈禁止令は度々出ていたのでしょうが、どれだけ効果があったのでょうか。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年5月29日(1829年)
朝、山口村の医師日向亮元老に往診を頼む(使いを出した)。日向医師は夜に土浦に来られた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
・昨日の日記で「病気でまた体調が良くない」とあり、なかなか病気が良くなりません。親友の日向亮元医師に往診を頼んでいます。「山口村」は、現つくば市山口でしょうか。三中の居所から片道16キロほどありますが、信頼できる医師ということで往診を頼んだのでしょう。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年に5月30日は存在しませんので(同月は小の月)、 #色川三中 #家事志はお休みです。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年に5月31日は存在しませんので(旧暦には31日は存在しません)、 #色川三中 #家事志はお休みです。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
付1 春米屋月行事の覚書(5月21日条)
覚
一 米金一両に付き 6斗8升買〈但し2升下げ〉
内6升8合つきべり
残り6斗1升2合
銭6貫600文
660文:利息
204文:つき賃
締めて7貫464文
一升代121文1分:但し 3 文 4 分下げ
右のとおり売買致したく願います。以上
丑五月
両町春米屋 惣代 四郎右衛門、弥兵衛
中城 幸助、清兵衛
太田甚五兵衛殿、色川桂助殿
両町名主奥印
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
付2 穀屋行事の覚書(5月21日条)
覚
一 上米金一両につき 7斗買〈但し前より2升下〉
6斗8升売
一 中米金一両につき 7斗2升買〈但し前より2升下〉
7斗売
右のとおり売買致したく願います。以上
丑五月
両町穀屋行事 弥右衛門、甚助、中島屋清兵衛、枡屋 弥七
太田甚五兵衛殿、色川桂助殿
両町名主奥印
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
付3 油屋行事の覚書(5月23日条)
覚
一 水油10樽 但し3斗6升入
代金17両1分元直段 前より金1両下
一 同金1分に付
水油4升7合3夕 前より3合下
一 同1升に付
代350文 前より16文下げ
一 同1合に付
代35文 前より1文下げ
右のとおり値下げして売買致したく願います。以上
文政12年丑五月
両町油屋行事 万屋清兵衛、いせや伊兵衛
太田甚五兵衛殿、色川桂助殿
両町名主奥印