南斗屋のブログ

基本、月曜と木曜に更新します

三中、体調回復、町年寄に復帰 文政12年6月中旬・色川三中「家事志」

2024年06月24日 | 色川三中
三中、体調回復、町年寄に復帰 文政12年6月中旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第四巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年6月11日(1829年)
今日はようやく晴れたと思ったら、又雷雨。銭亀川の水位は八合に上がった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
不安定な気候は続き、本日も雷雨。土浦は水害に度々襲われているため、「銭亀川」の水位は三中にとって気になります。
なお、「銭亀川」は現在の土浦の川の名としては見当たらないのですが、「銭亀橋」が桜川上にあり、現在の桜川を指すのではないかと思われます。

〈その他の記事〉
・町年寄の栗山八兵衛殿に帯刀が許された。町への触書は本ブログ末尾付1のとおり。
・別件の家屋の譲渡証文は本ブログ末尾付2のとおり。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年6月12日(1829年)雨
先日の雷雨で、鬼瓦が砕けた 川口の蔵に行く。鬼瓦だけでなく、柱五本が裂けて破損していた。今日、蔵で働いていた者が正油もろみかきに入って分かった。皆驚き、これは雷神の仕業だと知った。火事にならなかったのは幸いだった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
先日の雷で、色川家の川口(土浦市川口)にある醤油蔵の鬼瓦が落ちて砕けちってしまい、その現地見分。鬼瓦だけでなく、柱が五本破損していることも知ると、「雷神の仕業」とも記してしまう。不思議なものへのおそれが人々の感覚に残っている時代です。

〈詳訳〉
・先日九日夜の雷雨で、川口の蔵の鬼瓦が砕けたので昨日行って見てきた。小瓦は何事もなくて、鬼瓦だけが落ちたのは不思議。鬼瓦が空に引き上げられ少し先へ押出されて落ちたからか。
・被害は鬼瓦だけと思っていたが、今日、蔵で働いていた者が正油もろみかきに入ったところ、よく見ると柱五本が裂けて破損していたとのこと。人は皆驚いて、これは雷神の仕業だと知った。他に損害がなく、火事にならなかったのは幸いだった。

〈その他の記事〉
・十一屋与四郎が来た。中町の出入に関する一件(民事裁判)は終了したとのこと。昨日呼び出されて、縄手となったが、金二両で解決したとのこと。差添は町年寄の栗山八兵衛殿。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年6月13日(1829年)晴
川口の蔵に、雷で裂けた柱の様子を見に行った。柱の角が裂けて、黄白色の短い毛がある。裂けたところに血と思われる赤い染みがある。何が起こったのか!周辺では、大木が何本も倒れたり裂けたりしたという。
#色川三中 #家事志
(コメント)
一昨日に川口の蔵を見分。雷で柱が五本破損した跡を観察したいます。「黄白色の短い毛」や「血と思われる赤い染み」と認識してしまっているのは、雷神の仕業と信じてしまっているからでしょうか。

〈その他の記事〉
・早朝、入江素行氏が病床を訪れてくれ、書を贈ってくれた。菓子一箱もいただいた。
⇒末尾付3
・東覚寺(等覚寺)の和尚と武八が来られた。芝居興行の件で、御上(土浦藩)は寺の敷地内でなければ興行を許可しない扱いであるとのことだったが、願書を差し上げて漸く川口の戸山屋敷を借用して興行を行うとの許可を得たとのこと。十八日から初日であるという。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年6月14日(1829年)
三中先生、本日休筆です(今日一日だけです)。
#色川三中 #家事志

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年6月15日(1829年)晴
・体調が回復したため、40日ぶりに町年寄として出勤。夕方、入江氏(名主)と町年寄及び親類に挨拶をした。
・先日の雷雨の際、土浦周辺で雷が落ちたのは、十七八ヶ所あるとのこと。
・今日、中町の笠揃いがあった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
・5月5日の夕方に持病の喘息が再発してから、家で療養し、町年寄の仕事は休んでおりましたが、ようやく体調が回復したため、40日ぶりに町年寄として出勤しました。挨拶回りは欠かせず、名主、町年寄、親類に復帰の挨拶ををしています。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年6月16日(1829年)曇
・夕方、栗山八兵衛殿が帯刀で行事に参加されるので、お迎え。但し、2、3年前の申し合わせで東崎町は出ず、中城町だけのお迎えである。
・夜、天王様のお祭り(祇園祭り)の御宮参り。町役人は羽織袴で参列した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
土浦の祇園祭り(天王様のお祭り)は、旧暦6月13日〜15日ころに行われます(現在は7月下旬)。祭りも終わった為、町役人一同が正装で御宮参り。栗山殿は苗字帯刀が許されたため、この行事に初めて帯刀で臨んでいます。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年6月17日(1829年) 曇
両町の名主と町年寄が登城し、儀式の後、藩の役人へ御礼廻り。川口様、鈴木様、大久保様らに儀式は滞りなく終わったことを報告し、御礼を申し上げた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
今日は、土浦の両町(中城&東崎)の名主・町年寄が揃って土浦の城に登城し、行事に参加。その後、藩の役人への御礼廻りをしています。祇園祭りが終わったタイミングでするのが土浦の流儀なのでしょう。

〈詳訳〉
・両町の名主と町年寄全員が登城し、御鐘の鳴りを合図に、御神酒三杯をいただく。御肴の切スルメを紙に包み、御神酒をいただいた後、紙で盃を拭って納め、退座した。
・その後、両町の名主と町年寄全員で藩の役人へ御礼廻り。御年寄の川口様、鈴木勘解由様、同治部左衛門様、吟味衆の大久保様、佐久間様、中里様、神田様、組頭、御目附を廻り、御神酒を無事にお召し上がりになった趣を御礼申し上げた。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年6月18日(1829年)
三中先生、本日休筆です(今日一日だけです)。
#色川三中 #家事志


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年6月19日(1829年)晴
東覚寺(等覚寺)の芝居興行は、役者が病気のため延期願いが出された。東覚寺の願書に町年寄として奥印を押す。
#色川三中 #家事志
(コメント)
東覚寺(等覚寺)はもともと角力興行を計画していたのですが(3月26日条)、いつのまにか芝居興行に変わっていたようです。昨日が初日だったのですが(6月13日条)、役者が病気のため興行は延期せざるをえなくなりました。興行に関することは藩の寺社役所の許可が必要ですので、延期願いが提出されています。

〈その他の記事〉
・東覚寺(等覚寺)からの芝居の桟敷の値段の届け⇒末尾付5

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年6月20日(1829年)晴
・炎暑甚し。17日からずっと猛暑。夕方に雷。
・早朝、大川様、相場様が竹原宿まで御越しになるので、お見送りをする。中食と泊りは下5人及び御上2人で合計7人、酒肴諸雑用で金2朱1貫626文。泊りは御上分各250文、下分は各200文と見積もると、合計金2分2朱500〜600文かかる。
#色川三中 #家事志
(コメント)
竹原宿(たけはらしゅく)は、水戸街道千住宿から15番目の宿場町で、現在の茨城県小美玉市竹原。 本陣及び脇本陣は無く、旅籠のみの小さな宿場でした。 土浦からは約20キロ。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
付1 町への触書(6月11日条)
栗山八兵衛家は代々年寄役を務め、特に小前の取り扱いが上手であったため、この度、名主次席となり、重き御用向の節は帯刀することを許可するとの仰せである。また、苗字を名乗ることも許された。よって、町方に触書する。
丑6月
(コメント)
栗山八兵衛殿は町年寄の筆頭で、町役人としては名主に次ぐナンバー2の立場にいます。今般、名字帯刀が許可され(6月5日条)、町触れがなされたので、三中はその写しを日記に記録しています。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
付2 (6月11日条)
譲渡証文
一 家屋鋪一ヶ所
但し
表間口四間
裏行川端迄
代金二十五両也

文政十二丑六月
大町
譲主 弥兵衛
組合惣代 伝兵衛
同 佐兵衛
同 忠助
口入 甚助
親類惣代 清助
平右衛門殿
奥印
(コメント)
家屋敷を代金25両で譲渡するという売買契約を証する書面です。現代では売買契約書を作成するところですが、譲渡人が譲受人に対して家を譲渡するという「譲渡証文」の形式が取られています。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
付3 江民素行(入江素行)から贈られた書(6月13日条)
明者が喘息にかかった。いく月も倒れこんでおり、人々はもう立ち上がれないと噂していた。しかし、保護が真摯で薬も効いたため、今は危地を脱し平安に過ごしている。徐々に回復するのも指折りで待てるだろう。
私は微かな誠意を伝える。古人は「病が小康状態になればよくなる」と言う。明者はその人の妻や 子供たちのことを思い、身を慎んで戒めてほしい。
文政己丑年夏六月上旬に贈る
江民素行
色川英明詞兄
(コメント)
漢詩を現代文に訳したものです。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
付4 (6月15日条)
町への触書
この度、等覚寺から芝居興行の願いが出たため許可した。ついては、町方の者は静かに見物すること。心得違いをする者がいる場合は厳しく対処するため、その旨町役人から急度申し伝えること。
また、先だって申し伝えたとおり、見物する男女は綿服だけ着用すべきであって、絹布と紛うような品を着用してはならない。
以上のとおりの仰せであるので、町方に触書する。
丑六月
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
付5(6月19日条)
書付
恐れながら書付をもってお届け申し上げます。
一 桟敷:木戸銭以外に二十匁
一 土間一枡:木戸銭以外に十五匁
一 切落し・入込:百八十文
但し、木戸銭を添え次代とも
一 同:子供 百文
右の通り御届申し上げます。
等覚寺
寺社御役所様
奥印
(コメント)
東覚寺(等覚寺)主催の芝居の桟敷等の値段の届けです。等覚寺から藩の寺社役所宛に提出されるものですが、町役人を経由するので、三中は参考になるかと思って写したのでしょう。
桟敷席⇒枡席(土間一枡)⇒切落し・入込の順に安くなっています。
土間一枡(ひとます)とは、枡形に区切った見物席。平土間ともいいます。
切落しとは、芝居小屋の平土間の最前列で下等の席。入込は、多人数の入る席。大衆席、追い込みともいいます。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする