借家暮らし続く 嘉永7年5月下旬・大原幽学刑事裁判
大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。
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嘉永7年5月21日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・日の出前に幸左衛門殿が借家に来た。
・武左衛門殿は本日江戸を立ち、帰村された。
・幽学先生は食事を取った後、買い物に出かけられた。夕方、脇差3本、目貫5組を買ってお戻りになられた。
・昼過ぎに親父(伊兵衛)が網を売りに出かけたときに、借家に立ち寄られた。
・昼に惣右衛門殿が借家に来て、借家の腰張を手伝ってくれた。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
幽学先生は転売ヤーとして、今日も仕入れ。初めて「目貫」というものを仕入れてきました。目貫とは、手で握る部位である「柄」(つか)の中央付近に付けられた刀装具の一種で、滑り止めと手溜まりを良くする機能を備えています。装飾品としての価値もあり、目貫だけで売買がなされていたことがわかります。
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嘉永7年5月22日(1854年)雨
#五郎兵衛の日記
・朝方に横山町で綿を買った。米沢町で巻せんべいを買ってから借家に戻った。
・昼から先生は横山町付近を散歩しながら買い物に出かけた。昼過ぎにお戻りになり、先生と二人して鍔を磨いた。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
巻せんべいは、煎餅を薄焼きにしたものをそのまま、あるいは有平糖などを芯にして巻きこんだもので、宝永ごろから江戸吉原の名菓として有名であったそうですので(コトバンク)、五郎兵衛も来客用にと思って購入したのでしょう。「米沢町」は現在の中央区東日本橋一・二丁目あたりなので、ご近所での買物です。
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嘉永7年5月23日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・幽学先生は藤元屋に行かれたが、すぐにお戻りになり、鍔磨き。
・良祐殿は日の出前に借家に来られ、借家の普請を昼前までした。日暮れには職場に戻った。
・夕方、佐竹様の辻番の仕事をしている惣右衛門殿のところへ行き、明日朝飯を一緒に取ろうと話した。
・晩には幸左衛門殿が借家に来られ、泊まられた。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
幽学先生はこの時期藤元屋と関わりを持っています。仕入れた刀等を藤元屋の店先に並べてもらい、売っていたようです。今日も仕入れた品を置きに行ったのでしょうか。
佐藤雅美『お白洲無情』(小説)
「江戸の町を歩き、質屋、古道具屋、骨董屋などを訪ね、鈍刀や脇差を二本、三本 仕入れて新品同様に仕立て直し、藤元屋の店先に並べてもらうという商売はまあまあだった。そこそこの稼ぎになった。」
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嘉永7年5月24日(1854年)雨
#五郎兵衛の日記
・幽学先生は藤元屋に行かれたが、すぐにお戻りになった。
・惣右衛門殿が日の出前に借家に来て、昨日の約束どおり朝食を一緒に食べた。
良祐殿、節五郎殿、伊兵衛父も昼前には借家に来た。皆に「近々奉行所から御呼出しがあるかもしれないので、ご用意をお願いします」と伝えた。
・帳簿の付け方につき、幸左衛門と話す。
・良祐「先祖株では大そう助かりました。御上へ願済になり御判を頂戴した時には、祖父祖母たちは涙をこぼして喜びました。それで若者子供たちまでどんなことでも勤めて孝行しようとと思って、私どもも浮かれて叱られたのあります」と、幽学先生に話しをされていた。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
先祖株についての良佑の述懐。
大原幽学といえば、教科書的には先祖株組合を作った人、先祖株組合は世界初の農業協同組合である等と評価されていますが、五郎兵衛日記ではこれまで先祖株については触れられていませんでした。
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嘉永7年5月25日(1854年)雨
#五郎兵衛の日記
・早朝ご飯を食べているときに、炭のことで幽学先生からお話しあり。
「自分勝手に物事を決めているから、私が言ったことが腹に留まらない。何度も言ったが、とにかく軽くごそごそする火のほこりのようなのが良いと言ったのに、それがわからないのでは困る」
・その後幽学先生は横山町へふち頭注文に行かれた。
・良祐殿が日の出前に来られる。長左衛門殿は借家普請をして、夕方には帰られた。小生前の土普請と借家の腰はりをした。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
本日幽学先生は「縁頭」を注文に行っています。「縁頭」(ふちがしら)とは、刀の柄頭と縁金の二つの部位を一対のものとして呼ぶときの名称です。別の刀の構成部品ですが、同じ模様が施されるようになったので、二つで一対として扱われています。
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嘉永7年5月26日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・朝食後、せんたく屋へ行く。
・良祐殿が日の出前に来られる。長左衛門殿は借家普請をして、夕方には帰られた。昼過ぎに高橋力蔵様がお出でになられて、昼過ぎにはお帰りになった。小生は昼前に借家の土普請をした。
・日暮れころ、幽学先生は良祐に種々のご教諭。しかし、「どうも自分で勝手に決めてしまうところがあって心配だ」とのこと。
・未明、丸の内の材木屋から出火。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
五郎兵衛が洗濯屋に行っています。この日記では初出。江戸時代の洗濯屋は洗濯女が2人1組になって、顧客の家へ出かけ灰汁を使った洗濯で木綿を主とする衣料の洗濯をしていたそうです。
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嘉永7年5月27日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・日の出ころ、幽学先生は高輪にお出かけになり、昼過ぎにお戻りになった。
・小生は昼前に番町のに味噌を取りに行き、
惣右衛門殿のところに立ち寄った。惣右衛門から「幽学先生のお側にいるのは五郎兵衛だけであるから、幽学先生のお考えのとおりに務めてもらいたい」との話しあり。
・昼ころ、節五郎殿が来られる。高輪に脚気の療治を一通りできる医者がいるので、そこへ行ってみるとのこと。
・幽学先生から「節五郎も五郎兵衛も自分のことだけを気にかけていて、周りのことは何も思いつかない。何もわからないまま国元へ帰っても、大勢の世話をすることができないぞ。まず、江戸に出府している者たちのことを皆自分のことのようにして、注意を払ってみよ。そうすれば、何をすべきかが分かってくるはずだ。」と叱られた。
・節五郎殿は御門番見習に戻られた。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
節五郎が脚気になってしまいました。幽学先生のアドバイスは「食事を減らしたら」というものでしたが(5月19日条)、ビタミンB1不足が原因ですから、幽学先生のアドバイスどおりにしても良くなる訳はありません。
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嘉永7年5月28日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・幽学先生のお話し
「普段私が思っていることは、門人の行末を良くさせたいという事だ。それ以外は何も思っていない。」「人のことを明けても暮れても思っていれば気配りも届き、つまらない考えも出るはずはない」。
・「去年8月28日夜、両国川開きの花火を見にいこうかといったが、それでは国元に言い訳できないといって、誰も見物にいかなかったではないか。それを今年は、書物を教えているものに頼まれたといって、花火を見に行くというのは問題ではないか。」
・「それから、私への相談もなしに帯を買った者がいる。これは約束違反だ。幸左衛門、節五郎ら三人も約束違反した者がいる。」
・早朝、石川様御屋敷の新部屋へ白米を取りに行った。門番に節五郎殿が勤めていたので、脚気のことにつき聞く。「親方にそのことを話したら、医者に見せるのは、まず灸をしてみて四五日様子を見てからで良いだろう」とのこと。このこと戻ってから、幽学先生にもお話しした。
・朝早く、家主に店賃を持っていく。昼から髪結い。丁子屋に行きタバコを買う。暮方に人形町へ行って瓜を買ってから帰る。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
節五郎の脚気治療続報。昨日の話しでは、高輪の医者が脚気治療ができるということでしたが、今日になってみると、職場の上司に「まずはお灸をやってみろ」と言われたとのこと。健康保険はなく、医者に掛かったら相当の費用がかかりますから、医者に行くのも慎重にはなりますね。
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嘉永7年5月29日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・今月も最終日である。早朝に惣右衛門殿、伊兵衛殿、良祐殿来られる。昼前に一同で勘定をし、昼はうんどんを大食。余ったので晩もまたうんどんを食べる。伊兵衛殿は昼過ぎに職場に戻られた。
・一同への幽学先生のお話し。「長沼組の者は性学の本意を知らないから、追々勤めさせるより外はないだろう。」良祐殿、惣右衛門殿、幸左衛門殿が幽学先生とお話しになった。良祐殿、幸左衛門殿、七右衛門殿(昼過ぎに来られた)が借家に泊まり。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
毎月の最終日は、道友一同借家に集まって、経費精算&会食です。この年の5月は小の月なので、今日が月の最終日となります。
今日のメニューはウドン。昼に「大食」したのに、余ったというのですから、どれだけウドンを作ったのか…。
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嘉永7年に5月30日は存在しませんので(嘉永7年5月は小の月)、 #五郎兵衛の日記 はお休みです。
#大原幽学刑事裁判
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嘉永7年に5月31日は存在しませんので(旧暦には31日は存在しません)、 #五郎兵衛の日記 はお休みです。
#大原幽学刑事裁判
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