水戸様の御遺骸のお通り 文政12年11月上旬・色川三中「家事志」
土浦市史史料『家事志 色川三中日記』をもとに、気になった一部を現代語訳したものです。
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文政12年11月朔(1日)(1829年)朝曇少し雨
本日、水戸様の御遺骸が土浦を通行。早朝から準備。五ツ時に先頭が到着、五ツ半水戸様の御遺骸が通過。柩の担ぎ手は120人。当家では人足や侍衆の対応。万事滞りなし。昼食はお取りにならず、四つ半過ぎに出立された。
#色川三中 #家事志
(コメント)
水戸様の御遺骸が土浦を通行されました。土浦で一行が休憩するため、土浦藩と町でかなりの準備をしてきました。その甲斐あって、大過なく対応ができたようです。
三中はかなり詳細な記録を残しており、詳訳しました。
〈詳訳〉
本日は水戸様ご遺骸のお通りの日。牛久(現牛久市)を御立ちになるのが想定より早めとのこと。朝早く起き、馬小屋に屋根をかけ、雨の用心をする。
五ツ時ごろ、御供頭が土浦に御到着。店に幕を張って待機。
五ツ半ごろにから水戸様ご遺骸の御通行。庄勘右衛門が先導し、本陣に御到着。故権中納言従三位源哀公の柩を担ぐ者120人。
庄勘右衛門様は本陣から引き返し、我が家に御到着になられた。我々は羽織を着て平伏し、すぐに案内して二階へお通しした。
人足19人、馬1匹
御供衆14人
引馬1匹
旦那15人
合計34人(ママ:38人の間違いか)、馬2匹
与兵衛が記録担当(人足の在所の名簿の記録)、徳兵衛は客人および人足の世話、喜兵衛が侍衆の足すすぎ湯担当。
案内は大町の者が行った(私の家への案内は石橋五助が担当)。
郷目付衆、下目付衆が絶えず行き来している中、家の裏にむしろを敷き、木戸を立て、人足の在所の名前を記録する等した。食酒・用便も担当の者が対応し、問題も生じなかった。
土浦藩の御物頭の小林義左衛門様が使者としておいでになり、取り次ぎと案内を務めた。
御進物、御見舞いの菓子を一折差し上げた。
昼食をお取りになるか伺ったものの、それには及ばないとのことで、とり彦などとも相談したが、他の町役人も「稲吉宿で昼食を取る、時間もまだ早いので、昼食は不要である」とのこと。
御一行は四つ半過ぎに出立された。すべて滞りなく済んだ旨、名主の入江全兵衛殿に報告。
〈その他の記事〉
・今夕、大町惣三郎方で祝儀があるとの連絡あり。病気を理由とし、代わりに色川庄右衛門が出席すると返答した。
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文政12年11月2日(1829年)曇
下総徳兵衛(元従業員)が本日土浦から下総に帰った。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「徳兵衛」は元従業員で、本年2月に退職して下総に帰っていたのですが(2月24日条)、先月26日に土浦に来ていました。水戸様のご遺骸が土浦を通過し、その対応で徳兵衛は客人および人足の世話をしていましたから、臨時に来てもらったのかもしれません。
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文政12年11月3日(1829年)晴
水戸様の御家中から御茶代や御昼食代などをいただいたときは、名主に報告するようにとのことであったが、田宿町ではそのようなことは特になし。
#色川三中 #家事志
(コメント)
水戸様ご遺骸は無事土浦をご通行になったのですが、本日の記事はその後の事務処理についてです。水戸様の御家中から御茶代や御昼食代をもらっていないかどうか、土浦藩では把握しておきたかったのでしょう。
〈その他の記事〉
・夜に隣主人と間原氏を自宅に招いて打合せ。栗山氏(町年寄)もお出でになった。
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文政12年11月4日(1829年)晴
・七ツ時、栗山氏(町年寄)と、ひものやの件につき打合せ。
・夜から持病(喘息)が悪化し、臥せる。
#色川三中 #家事志
(コメント)
水戸様ご遺骸の土浦通行という一大行事が終わったので、ひものやとの訴訟対応が再開しています。夕方に町年寄の栗山氏が来て打合せ。その後、夜には三中は持病が悪化しています。一大行事によるストレスが原因かもしれません。
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文政12年11月5日(1829年)晴
八ツ時、栗山氏来訪さる。「ひものや鉄五郎の件で町奉行から趣意書の提出指示があった。三日以内に提出。御請書はすぐに出してほしい」。直ちに御請書を作成し、利兵衛殿(叔父)に持っていってもらった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
ひものやさんから三中を相手方として訴えが奉行所に出ており、三中は「趣意書」の提出を求められています。現代の訴訟では「答弁書」に相当するのでしょう。現代では提出まで1ヶ月くらいもらえますが、「趣意書」の提出は3日以内。かなりスピーディーです。
〈詳訳〉
・体調が悪く、安静にして過ごす。
・八ツ時、栗山氏(町年寄)がお出でになった。「ひものや鉄五郎の件で、町御奉行様からご指示があった。趣意書を明六日から三日のうちに提出するように。そのことの御請書はすぐに提出してもらいたい。」
直ちに御請書を書き、利兵衛殿(叔父)に持っていってもらった。
・(請書の内容)
「指上げ申す御請一札の事」
一 私の店が源七の倅の鉄五郎に訴えられた件、今月八日までに趣意書を提出するようにとのご指示を受け、その旨承知致しました。よって、御請書を提出いたします。
十一月六日
年寄 桂助(←色川三中の本名)
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文政12年11月6日(1829年)晴
・今日も調子が悪く、安静にして過ごす。
・夜に、惣三郎の養子(同人の弟)の嫁「みさ」が「いゑ」殿と共に見舞いに来られた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中は日記で女性に言及することはあまり多くありません。今日の日記では珍しく女性2人の名前が書かれています。体調不良で見舞いに来てもらったのが、嬉しかったのでしょうか。
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文政12年11月7日(1829年) 晴夜中雨降
雨森宗作老がお出でになった。この方は若栗(現阿見町若栗)の生まれである。上酒一升をお渡しする。亀郁という座頭の所に、大同類聚方という書物があるそうなので、問合せていただけないかとお願いした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
『大同類聚方』(だいどうるいじゅほう)は、平安時代初期の大同3年(808年)に成立した日本最古の医学書。江戸時代には出版もされており、三中はこの書物を見たいようです。町年寄の仕事は辞めて、薬学・医学方面を探求していきたいようです。
〈その他の記事〉
・九ツ前時、和泉屋金之丞殿がひものや一件のことでお出でになった。
・夜に岩間宿のいせやから、先日宍戸の御先触が紛失した件について、当人が出頭してお詫びしなければ済まないということを伝えに来ました。名主いせやの書状を持参して伝えに来たので、それならば当人が支配届をもって出頭するようにしてくださいと申し上げた。
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文政12年11月8日(1829年)晴
・ひものやとの裁判の趣意書は今日提出期限であったが、病気で書けず。五日間の延長を願いでた。
・嘉兵衛と茂吉は鹿島へ行商に行った。
#色川三中 #家事志
(コメント)
ひものやとの裁判の趣意書は、今日が締切りでした(11月5日条)。しかし、ここのところ持病で体調が悪化し、書き物ができなかったようで、趣意書も仕上がりません。そこで、締切りの5日間の延長申請をしています。理由があれば、期限の延長は認められていたのでしょう。
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文政12年11月9日(1829年)晴
日本橋通り二丁目の山城屋佐兵衛の店に、
和名鈔(十匁)
多識編(四匁五分)
介品(弐匁五分)
以上古本三冊。
新撰字鏡(七匁五分)
以上四冊を求めていたところ、昨日、飛脚が持ってきた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
・『和名鈔』は『和名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)の略称。平安時代中期に作られた辞書です。
・『多識編』は林羅山が著した本草学の書物。
・『介品』はちょっとよく分かりません。
・『新撰字鏡』(しんせんじきょう)は、平安時代に編纂された漢和辞典、字書の名
〈その他の記事〉
・賭博目附の内田六蔵が、ひものやの件についてお出でになられた。
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文政12年11月10日(1829年)晴
夜にひものや一件の趣意書を完成させ、栗山(町年寄)に持参。すぐに入江(名主)へ見せなさいと言われたので、入江方へ持参した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
奉行所に「趣意書」を提出する期限は13日なので、まだ余裕があるのですが、体調が回復したのか今日の夜に趣意書を完成させています。念には念を入れて、町年寄に見せたところ、名主にも見てもらえといわれ、名主宅に夜にもかかわらず訪問しています。
(その他の記事)
・ 四ツ過時に、入江全兵衛殿(名主)がお出でになり、「水戸御役人衆から、先日の休憩所の名前札を全て板から剥がして返却してほしいと言われた。御役人衆は明朝早く出発するので、今夜のうちに返してほしいとのことだ」と言われた。手伝ってもらった者を全員呼び寄せて、返却してもらった。
・与兵衛(従業員)はまたまた病気になっていたが、ようやく治り、今日谷田部から土浦に帰ってきた。
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