嘉永7年10月上旬・大原幽学刑事裁判
大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(気になった部分のみ)。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年10月1日(朔)(1854年)添番
#五郎兵衛の日記
朝は掃除、時触れ、役所の用事、楊枝削り。五ツ前に幸左衛門殿と宜平殿が松枝町の借家から戻る。昼から宜平殿と二人で髪結い。八ツ半時に作蔵殿、宜平殿と三人で揚場の湯に行き、七ツ過ぎに戻る。御弓場の片付け、御床上げ。夜番は九ツから勤める。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
五郎兵衛と幸左衛門殿、宜平は大原幽学の道友(弟子)ですが、そのことを隠して御屋敷で奉公人として働いています。五郎兵衛は、金江津村の「忠三郎」と偽っていますから(7月11日条)、他の二名も変名なのでしょう。一番下っ端とはいえ、武家の奉公人の実態はそんなものだったのですね。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年10月2日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
朝は掃除、床下げ、馬場の設営、楊枝削り。夜九ツ半より夜番を勤める。
なお、幸左衛門殿は八ツ時に松枝町の借家へ出かけ、暮方には戻られた。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
身分の不確かな者でも奉公人になれるほど、武家屋敷は人手不足だったのでしょう。肉体労働で給金がさほどでもなくて、人気のない仕事だったのかもしれません。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年10月3日(1854年)
#五郎兵衛の日記
朝、所用をこなす。楊枝を売りに出かける。
出掛けにまずは汁粉。
新道で楊枝を売ろうとするも買い手なし。大丸新道の小間物問屋に寄るが、やはりダメ。
松枝町の借家に行き、泊まる。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
これまで「楊枝削り」と日記にあったのは、やはり内職だったようで、楊枝を売りに行っています。まずは汁粉というのが、五郎兵衛らしい。しかし、楊枝は全く売れず。需要を読み違えたのか、それとも五郎兵衛の製品の質が良くないのか…。
---
〈詳訳〉
朝、掃除、下駄の紐を撚る。九ツ時、出掛けに筋交いの藁店に立ち寄ってしる粉を買う。新道の店を訪ねて楊枝を売ろうとするが、誰も買い手が見つからず。大丸新道の小間物問屋を三軒ほど訪ねるも、どの店も楊枝は足りているからといって買ってくれない。諦めて松枝町の借家へ行くと、節五郎殿が役所から戻ってきたところ。田安家の磯部様に本日はお目通りできず、明朝出直すことに。
五ツ時に五郷内村の長左衛門殿の母親が来て、いろいろと話をして、四ツ時に帰った。
そのまま節五郎と共に借家に泊まる。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年10月4日(1854年)添番
#五郎兵衛の日記
日の出前には借家出発。良左衛門君早起きして用意してくれたおかげ。節五郎殿と市ヶ谷(淀藩)の磯部様に立ち寄り五ツ前に面会。五ツ時に番町の屋敷に戻り仕事。夜九ツ時まで夜番勤務。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
「良左衛門君」は遠藤良左衛門。長部村の名主遠藤家の跡取り息子です。放蕩息子だったのですが、幽学先生との出会いにより改心。今朝もかなりの早起きで、道友の為に朝食等の用意をしてくれています。
---
〈詳訳〉
夜八ツ半時に良左衛門君が起きて、朝ご飯の仕度をしてくれた。七ツ半時、節五郎殿と二人で出かける。途中で市ヶ谷の磯部様の御宅に寄り、内々に御目通りを願ったところ、五ツ前にお会い下さった。牛込御門外で節五郎殿とわかれ、五ツ時に番町の御屋敷に戻る。
本日は添番。時触、楊枝削り、御弓場の片付け、御床上げ。幸左衛門殿と宜平殿は松枝町の借家に行き、幸左衛門殿は暮方に御屋敷に戻ってきた。
九ツまで夜番を勤めた。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年10月5日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
朝掃除、御床下げ、楊枝削り。
書き物の写しの仕事の口がありそう(作蔵殿情報)
夕方床上げ。夜番。幸左衛門殿と宜平殿と話し合い、夜番を明けまで勤めたら、朝の膳が出るまで寝ていて良いことに取り決めた(他の二人が掃除)。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
五郎兵衛は本番+夜番の連続勤務を結構やっています。体力的にかなりシンドいのでしょう、藪家勤務の幽学道友トリオで相談し、夜番を朝まで勤めたときは、朝食まで寝て良いことにしました。かわりに他の二人が掃除をしてサポートしてくれます。
---
〈詳訳〉
本番。朝掃除、御床下げ、楊枝削り。昨日松枝町の借家に 泊まった宜平殿は五ツ時に御屋敷に戻ってきた。
中橋本屋より作蔵殿へ筆工の仕事があると手紙で知らせてきたとのこと。このこと、我ら二人に相談があった。宜平殿は幽学先生に御相談するといって、五ツ頃松枝町の借家に行ったが、先生は御留主。宜平殿は良左衛門君と相談して、九ツ半頃に御屋敷に戻った。小生は、夕方床上げ、夜番九ツより明けまで勤める。
夜三人で相談し、夜番を明けまで勤めた者は、朝の膳が出るまで寝て、残りの二人が掃除をすることと決めた。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年10月6日(1854年)非番
#五郎兵衛の日記
昼から田中様と一緒に佐久間町新道の楊枝屋へ楊枝を売りに行く。夕方、松枝町の借家に行く。天神岸で火事が起き、近くなので大騒ぎ。長左衛門殿が来て、九ツ時まで良左衛門君と碁を打ち、この日松枝町の借家に泊まる。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
五郎兵衛作の売れない楊枝は、御屋敷に勤める田中様の紹介で売り切ったようです。田中様とは普段から良い関係を築いているので(9月27日条では米をついてあげてます)、その成果がでました。買い上げた店で楊枝が売れたかは疑問ですが…。
※閏7月7日条に「御玄関田中様」とあるので、玄関番を務める武士かと思われます。
---
〈詳訳〉
非番。早朝から楊枝削り。昼から田中様とともに、佐久間町新道の楊枝屋へ楊枝を売りにいった。松枝町の借家に日暮ころに行く。節五郎殿がいたので、幽学先生に許可を得て、元浜町小張屋に行ったが、主人が留主でやむなく帰る。四ツ時、天神岸で出火。近くでありき大騒ぎに。長左衛門殿来て、九ツ時まで良左衛門君と碁を打っていた。この日松枝町借家に泊り。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年10月7日(1854年)添番
#五郎兵衛の日記
早起き良左衛門君が今日も朝食を準備。五ツ前には番町の御屋敷に戻れた。御馬乗り馬場を設営。五ツ時に元浜町本屋が来て筆工の打合せ。昼から宜平殿と髪結い。薬店湯。御屋敷に戻って御床上げ、御弓馬場の片付け。夜番を九ツまで勤める。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
良左衛門君(長部村の名主の跡取り息子)、相変わらずの早起き。また、五郎兵衛らの為に朝ご飯まで作ってくれます。お蔭で五郎兵衛は御屋敷に戻って添番を勤められます。楊枝削りに代わるバイトの話しもあり、五郎兵衛も仕事に精が出ています。
---
〈詳訳〉
七ツ時に起床。良左衛門君が御膳之支度致し、日の出ころに朝食を食べ、番町の御屋敷に五ツ前には戻る。添番。御馬乗り馬場の設営。五ツ時元浜町本屋が来て、筆工のこと打合せ。昼から宜平殿と二人で髮結い、薬店湯に行く。御屋敷に戻り、御床上げ、御弓馬場の片付け。夜番を九ツまで勤める。
宜平殿は七ツ時に松枝町の借家へ行き、泊まり。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年10月8日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
朝掃除、楊枝削り。昼から宜平殿と二人で稽古場の掃除。晩には仲橋本屋が来て、筆工の仕事の打合せ(宜平殿同席)。夜番を八ツから勤めながら「佐賀の夜桜」という書物を写し始める。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
五郎兵衛に新しいバイトの口が来ました。書物の写しの作成。以前にもやっていたので、五郎兵衛は慣れています。「佐賀の夜桜」=「鍋島猫騒動」のことです。
---
〈詳訳〉
本番。朝掃除、楊枝。五ツ時に宜平殿は松枝町の借家から御屋敷に戻った。昼には幸左衛門殿が松枝町へ行った(泊り)。昼から宜平殿と二人で稽古場の掃除。晩には仲橋本屋が来て、筆工の仕事の打合せ(宜平殿同席)。夜番を八ツから勤めながら「佐賀の夜桜」という書物を写し始める。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年10月9日(1854年)
#五郎兵衛の日記
非番だが、御屋敷で弓矢の稽古があり、朝六ツから支度。明け方から日暮れまで御殿様も参加されて弓の稽古。途中御粥を焚き、十人でお召上りになっていた。弓の稽古の間に、小生は終日本の写しをし、一冊仕上げた。その後、松枝町の借家に行き、泊まり。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
本日の記事から、御屋敷での弓矢の稽古の様子が分かります。明け方から日暮れまで行われたり、御殿様が参加されることもあったようですね。黒船来航以降の有事対応のための軍事訓練なのでしょうが、近代を迎えるというのに弓矢で大丈夫なのかと心配にはなります。
---
〈詳訳〉
非番。朝掃除。今日は弓矢の稽古があり、朝六ツから支度。明け方から弓の稽古始まり、全員参加。殿様も御参加。御粥を焚き、稽古終了後、十人でお召上りになった。弓の稽古は日暮れまで休み無く行われた。弓の稽古の間に、小生は終日本の写しをし、一冊仕上げた。
暮方に松枝町へ、また元浜町の本屋に行き、「佐賀の夜桜」の新刊30巻ものを2冊仕上げる仕事を依頼された(宜平殿と共同作業)。
「おけい殿」、「お袋」と節五郎殿が借家に来ていた。
幽学先生から「お袋」に、家の収め方や兄弟仲良く過ごす方法をお教えになられていた。
「長左衛門殿は以前は義論集も書き写すほどであった。衣類や大切な腰物まで弟にあげ、着の身着のままで生きていくほどであった。それを『長左衛門一人が財産を使い果たしてしまった』といって、それを弟にも話すというのは、心得違いも甚だしい。
兄弟仲良く過ごすには、双方とも自分の行き届かないこと、悪い所を知り、互に譲り合っていかなければ和することはできない」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年10月10日(1854年)添番
#五郎兵衛の日記
朝六ツ半時に松枝町の借家を出発。途中、大伝馬町で筆を買う。五ツ時御屋敷に帰る。軍書の書写し、御弓馬場の設営。
飯田町で湯に入った後、九つから夜番。その際、御次から蕎麦を3人前いただく。夜明けまで本の写し。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
五郎兵衛の副業は楊枝削りから、書物の写しに変わりました。本日の記事では、「軍書書写し」とありますが、仕事として命じられたものでしょう。黒船来航以降、御屋敷では有事対応を計っており、その一環でしょうか。
---
〈詳訳〉
朝六ツ半時に松枝町の借家を出て、大伝馬町の筆屋で筆を三本買う(宜平殿分も含め)。五ツ時御屋敷に帰る。
添番。軍書写し、御弓馬場の設営、八ツ半時飯田町久蔵方へ米持参。湯に入る。夜番九ツから勤める。夜番中、御次から蕎麦三人前をいただいた。夜明まで本の写し。
なお、宜平殿は暮方に松枝町の借家に行き、本日泊まり。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━