文政12年10月下旬・色川三中「家事志」
土浦市史史料『家事志 色川三中日記』をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。
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文政12年10月21日(1829年)晴
ひものや鉄五郎が願書を訂正し、栗山(町年寄)へ提出。夜に入江氏宅で町年寄一同が集まる。鉄五郎の組合全員及び久松時右衛門も呼び、これまでの経緯について念のため確認した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
ひものや鉄五郎の願書は不備があったため、保留とされていましたが(10月19日条)、早くも訂正されました。書面の作成には、代書をしているものがいるのでしょう。願書(現代でいえば訴状)は町年寄経由で、藩の役人に提出されます。
〈詳訳〉
・ひものや鉄五郎の願書の直しが出された。
・夜に、町役人一同が入江(名主)宅に集まる。ひものや鉄五郎の組合(五人組)と久松時右衛門を呼び出した。
入江全兵衛殿(名主)「各々を呼んだのはほかでもない、鉄五郎の件で、先日請人と組合が、桂助殿(色川三中)方へお詫びをした上で年内は勘弁するとの合意をしたことは皆も知ってのとおりである。このことは、当方へも届けがなされている。この度、桂助殿を相手取って、「願出」が鉄五郎から出されているが、これは一体どういうことかお伺いしたい。」
組合一同「先日、皆でお詫びをし、ご勘弁いただいて合意したことに間違いありません。」
私「なるほどその点は皆さんが仰るとおりです。それならば、鉄五郎が心変わりし、「願出」を出したということになりますね。もし別の意図があるならば、正直に話してほしいものです。
今回、私を相手取って願い出たということは、筋の通らないことが絡んでくると町年寄としての役が立たなくなります。御上がお糺しになられるのですから、請人も組合もそのことを心得えて、お糺しのときに間違いを言わないように心得ていただきたい。改めて一同の認識を承りたい」
組合一同は「合意に至った経緯ですが、組合一同で取組み、鉄五郎もそれで良い申し訳ないということで合意をしたのです。今回の願出は、鉄五郎が心変わりしとしか考えられません。」
以上のことを確認した。
〈その他の記事〉
・等覚寺の富願い(富くじを施行したいという願い)、大市が停止するので、23日から27日までと命じられる。
・今日、下高津から畑に札が立てられるという知らせが来た。
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文政12年10月22日(1829年)晴
水戸様の御尊骸は27日に江戸を発ち、土浦にてご休息予定となった。以前は中村宿であったが、対応が難しくなり土浦に変更となった。
これに伴い、割当担当の役人が明日到着し、藩の町奉行と名主と打合せることになった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
徳川斉昭の兄の斉脩が亡くなり、水戸街道をご遺体が通過します(10月20日条)。これまでは土浦の一つ手前の中村宿が御休憩地でしたが、今回土浦への宿泊に変更となりました。水戸藩の割当担当役人が前乗りで調整を行うようです。
〈詳訳〉
水戸様の御尊骸は27日に江戸を御立ちになられるとのこと。土浦での御休み所の割当のための御役目の方が明日には土浦にご到来とのことでる。
先年迄は中村宿が担当していたが、中村では差支えということである。近年、中村は衰微して、対応に難渋しているので、土浦での御休憩にとなった。その為、御役人がお出でになり、町御奉行様・名主全兵衛方へ御出になって、打合せをするとのこと。
〈その他の記事〉
・明日、隣主人と間原の両主人が、宍倉(現かすみがうら市宍倉)へ行って、借入れた金銭を受け取って来てもらうことになった。
・夜、新宅の常蔵が来た。「弟が来月1日に結婚する。君山村の藤右衛門の新宅の武兵衛のところだ。」←「君山村」は現稲敷市上君山・下君山。
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文政12年10月23日(1829年)晴
水戸様ご逝去に伴う自粛期間は、16日から22日までとのことであったが、本日(23日)からは物静かに致し、御沙汰があるまでは慎んで過ごすようにとの仰せである。これにより、大市もまた延期となった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
水戸様ご逝去に伴う自粛期間は、昨日22日までだったのですが(10月18日条)、当面延期との仰せです。これはご遺体が水戸街道を通るので(江戸出立は27日)、それに伴うものでしょう。
〈その他の記事〉
・隣主人と間原の主人が早朝に宍倉(現代語訳かすみがうら市宍倉)へ出発。川口の政之助が同行。
・本日家の前を道普請した。
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文政12年10月24日(1829年)晴
町奉行、吟味衆、肝煎衆、御目付衆により、座敷の御改めあり。孫ひさし等を取りはらうようにとのお触れがあった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
水戸様ご逝去に伴い御一行が土浦に御休憩となるので(10月22日条)、土浦藩の役人総出で座敷の総点検です。
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文政12年10月25日(1829年)晴
・岩間の伊勢屋から飛脚が来た。
・神龍寺より惣益講を行うとの回覧が来た。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「岩間」は現笠間市下郷。江戸時代は知人等に手紙を持っていってもらうことも多かったので、飛脚の利用はかなりの急ぎの用です。もっとも、飛脚が持ってきた内容は記事になく、わかりません。
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文政12年10月26日(1829年)
一昨日(24日)、鈴木金之丞殿(町年寄)はある事件の関係で呼出され、「遠慮」を言い渡された。本日、見舞に行った。
#色川三中 #家事志
(コメント)
鈴木金之丞は町年寄の一人(4月1日条)。何らかの事件で、藩から「遠慮」を言い渡されてしまいました。遠慮は、江戸時代の刑罰の一つで、籠居を命じたもの。他者の出入りを制限しないものなので、三中も見舞いにいくことができます。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E6%85%AE
〈その他の記事〉
・昨日来た岩間の伊勢屋からの飛脚には一晩宿泊してもらった。酒代二百文を渡した。
・下総徳兵衛が来た。
←「徳兵衛」は元従業員。佐兵衛と名乗るときもあり。本年2月に退職して下総に帰っていました(2月24日条)。
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文政12年10月27日(1829年)晴
昨夜、水戸藩の役人が土浦に到着。本日、座敷の御改めがあり、町役人は羽織袴で対応。栗山、大国屋、田町をご覧になり、四ツ半時に私の所に到着。店の前で平伏し、二階を案内。一見後に直ちに帰られた。旦那と供回り14人を引き受けることとなった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
水戸様のご遺体を水戸へ運ぶ御一行が土浦にて休憩を取ります。休憩場所の割振り担当が昨夜到着。本日各屋敷を見分して割振りをしています。水戸藩の役人には店の前で平伏しなければならず、土浦藩の役人の気取らなさとは随分違います。
〈詳訳〉
昨夜、水戸の御役人(宿割担当者)が土浦に到着。本日、座敷の御改めを行うので、町役人全員が羽織袴で出向く。栗山(町年寄)、大国屋、そして田町までご覧になってから引き返して、私の所へは四ツ半時にお出でになられた。
店の前で平伏し、役人が上がった後は中腰で二階を案内。一見後は直ちにお帰りになった。
旦那お一人と供回りが14人をお引き受けすることとなった。
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文政12年10月28日(1829年)晴
当家には、旦那1人と供14人、引き馬1頭が御休憩になる。湯沸かし、入浴準備、茶と菓子の用意等細々とした定めあり。
御休憩先は土浦町内の70軒にわたるが、大町は除外。大町からは案内要員を差出すこととなった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
水戸様のご遺体を水戸へ運ぶ御一行が土浦で御休憩をする準備が進んでいます。御休憩先は土浦町内の70軒であり、大変な数です。色川家でも旦那1人と供14人を接待し、引き馬1頭もお世話しなければなりません。
〈詳訳〉
・水戸藩のご家中衆である弓持頭の庄勘右衛門が、当家で宿泊することとなり、休息のお札を受け取った。今回のご宿泊は土浦町内の70軒。大町は除外。そのため、大町には案内要員を出すようにとのことである。
当方への宿泊は旦那1人と供14人、引き馬1頭に決まり、飼馬は本陣の大塚氏から受け取ることとなった。
・水戸様のご家中衆到着の用意
湯を沸かしておくこと、入浴の用意を整えること、御茶を差し上げた後に菓子を出すこと。大国屋は御弓衆をお引き受けなので、これとは異なる。人足は姓名帳に記載し、逃げ出さないようにすべきとのこと。
その他、御もてなしの詳細については⇒末尾付1
〈その他の記事〉
・江戸和泉町の河内屋孫右衛門殿方への買掛債務(残金1両2分14匁7分4厘)の件で、一昨日、
代人の八兵衛と申す者が来て、催促を受けた。
この買掛は辰年(文政3年 )のものである。
八兵衛は中城美濃屋に泊まり、一昨夜は利兵衛殿が、昨日は私が交渉をした。この十年のうちには父も亡くなる等様々な困難なことがありました等と事情を申し上げた。
今日も交渉をし、「金2分を支払ってくれれば、残りの金額は良い時に払ってもらえればよい」と言っていたどけたので、そのとおりに合意し、今日金200疋(=2分)を渡した。
・鈴木金之丞殿は「遠慮」を仰せ付けられていたが、今日で終了となった。並酒一升を贈った。
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文政12年10月29日(1829年)晴
今日、町組小頭や同心たちが最終の見分。店の看板等を取り払った。
後刻、町御奉行と御例座衆が御見分になるときは、御休札を持参して亭主が店の前に出て待つようにとの仰せがあった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
いよいよ明日(10月は今日までなので、11月1日)、水戸様のご遺体御一行が土浦を通ります。土浦藩の最終チェックは、町組小頭や同心+町御奉行と御例座衆の二重チェックです。粗相があってはイカンのでしょうが、それにしても厳重です。
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文政12年(1829年)10月は小の月のため、30日は存在しません。
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付1:御もてなしの様子(10月28日上記の参照)
御到着後
御茶
菓子
飯
汁 豆ふ
青み
平
長いも
椎茸
な 猪口 煮豆
牛房
ひりうづ
皿
にんじん
大根 す合白ごまをする
あぶらけ
香物切漬
同御手廻り衆の平
のつへいこいたす
いも
にんじん
あぶらけ
こんにゃく
牛房