嘉永7年10月中旬・大原幽学刑事裁判
大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(気になった部分のみ)。
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嘉永7年10月11日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
・朝掃除、御床下げ、写し物。
・宜平殿が五ツ半時に御屋敷に戻ってきて、「小見川の茂兵衛殿、野田村の俊斎子が江戸に来てます。しばらく滞在の予定だそうです」と教えてくれた。
・夜番を八ツ時から勤める。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
小見川(現香取市小見川)の茂兵衛は、今年3月28日にも松枝町に来ていました(その前は昨年2月でした)。俊斎の名も嘉永6年12月2日条に見えます。大原幽学の門人は時々千葉東総地域と江戸を往復していて、幽学先生を励ましたりしているのでしょう。
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嘉永7年10月12日(1854年)非番
#五郎兵衛の日記
朝掃除、写し物。昼から暮れ方まで、三人で安達様の米を搗く。夜番九ツまで勤める(宜平殿と交替)。
幸左衛門殿は、八ツ時に松枝町に行って泊まり。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
「安達様」は安達安蔵のこと(9月21日条)。旗本藪家の家来の一人です。五郎兵衛らは藪家の奉公人なので、家来の私用に奉公人を使うことは本来できないのでしょう。しかし、安達様は五郎兵衛らに「砂糖を買ってきてくれ」とか、「米を搗いてくれ」とか、ちょいちょい私用を頼んでいます。
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嘉永7年10月13日(1854年)添番
#五郎兵衛の日記
午後から松枝町の借家に行き、茂兵衛殿や長左衛門殿らと碁を打つ。幽学先生がオヤツに焼芋、夕食に鳥を御馳走してくれた。「香味の物は腫症に悪いから、しばらく食事は軽くにしなさい」とお気遣いいただいた。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
幽学先生が焼芋と鳥を奢ってくれました。今夜は特別に鳥を食べてもよいが、明日から食事を軽くせよとの幽学先生のお話し。今日は食いしんぼ五郎兵衛にとっては嬉しかったでしょう。
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〈詳訳〉
添番。朝掃除。宜平殿と二人で髪結い。昼、泉の湯に入ってから松枝町の借家へ。俊斎子と岡飯田村勘左衛門殿がおり、俊斎子と碁を打つ。
小見川の茂兵衛殿、長左衛門殿も来られたので、九ツ時まで碁を打つ。だいぶ負けた。
幽学先生は焼芋を買ってきて皆に振舞われ、夕飯には鳥を御馳走してくださった。「香味の物は腫症の者にはよろしくないから、今後の食事を控えるか、抜くくらいにしなさい」と仰っていた。
※碁の途中で元浜町の本屋へ紙を二十状持っていった。
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嘉永7年10月14日(1854年)
#五郎兵衛の日記
良左衛門君早起きし、朝食作り。小生も手伝う。昨晩鳥を食べたので、小生は朝食を我慢。幽学先生から「少食を心がけて痩せるように」と言われ、「わかりました。これからは腹八分目とします」と申しあげた。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
昨日幽学先生がオヤツに焼芋、夕食に鳥を奢ってくれたので、五郎兵衛は朝食を自粛。五郎兵衛の体調回復のため、幽学先生はなんとか痩せてほしいと思っています。五郎兵衛は、今後は腹八分目宣言をしています。それは良いのですが、ということはこれまでは腹一杯食べていたんですね…。
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〈詳訳〉
朝七ツ時に良左衛門君が起きて炊事をしてくれた。小生も起きて手伝う。六ツ時には一同起きて朝食(小生は昨日の幽学先生のご指導に従い、朝食を食べず)。
五ツ時、俊斎子に診ていただいたところ、「顔には少しだけ腫れがあるが、それ以外は全く問題がない。ただ、腹の具合はあまり良くないので、八味地黄丸を使うと良いだろう」とのこと。
幽学先生は、小生のお腹の症状について少し心配されていて、「この頃は腫れがなくなってきたようだが、痩せないのはどうも問題だ。食べすぎなのだろうが、誠に困る。今日から三十日痩せるように努めて、体に疲れが出てきたときに八味地黄丸を使う方が良いだろう。今後、健康を保つためには少食を心がけないとな。この先の生涯、丈夫になるためには以後少食とせよ」と仰っしゃられたので、「わかりました。腹八分目を良しとします」と申し上げた。
五ツ半に松枝町の借家を出、御屋敷に戻る。本番。御屋敷の田中様の為に七ツ時まで米を搗く。暮れ方に御弓場の片付け。九ツ半から夜番も勤める。
※宜平殿、本日松枝町の借家に行く。
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嘉永7年10月15日(1854年)非番
#五郎兵衛の日記
・お殿様は六ツ半に御登城。
・朝五ツ時から八ツ時まで、宮本様のために米を搗く。揚場の湯に入り、八ツから夜番を勤める。
・幸左衛門殿八ツ半頃松枝町へ行き泊まり。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
「宮本様」は藪家の家臣の宮本錠左衛門。宮本様の為に米を搗いていますが、五郎兵衛は今日は非番なので、公務ではなく、宮本様の私用なのかもしれません。それともそういう区別自体曖昧であったのか。いずれにせよ、このような雑用を喜んでやるのが五郎兵衛の良いところです。
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嘉永7年10月16日(1854年)添番
#五郎兵衛の日
朝掃除、写し物。昼から松枝町の借家に行く。俊斎子、茂兵衛子が逗留していた。幸左衛門殿は今日も泊まり。夜九ツまで碁に興じた。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
「俊斎子、茂兵衛子」は、今月11日から江戸に滞在している小見川の茂兵衛、野田村の俊斎のこと(10月11日条)。江戸には誘惑が多いはずですが、遊興せず節約が大原幽学の教え。家でノンビリと碁に興じ、あれこれと話しをするのは五郎兵衛にとっても楽しかったことでしょう。
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嘉永7年10月17日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
・幽学先生「無駄な出費が多いと身上を築くことはできぬ。この世の理が分かれば、無駄なく仕事ができ、早く効率よく進められる」
・お殿様と奥様が御忍びで五ツ時からお出かけ。
・写し物をし、夜番を九ツ半まで勤める。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
・幽学先生の教えは、一般常識に訴える平易なものです。「無駄な出費が多いと身上を築くことはできぬ」と述べていることの裏返しとして、身の丈以上の出費をして、赤字家計で汲々としていた農民がいたことがうかがえます。
・中井信彦は「幽学の農民指導の中核は、宗教も理想も持たず、希望も失っている農民たちに、その生活態度を根底から改造させようとしたところにあった」としています。
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〈詳訳〉
・幽学先生の教え「無駄な出費が多ければ、身上を築くことはできない。無駄なことをすれば仕事にも手間がかかってしまう。この世の理を理解すれば、無駄なく仕事ができ、早く効率よく進められる」
・御殿様と奥様が御忍びで五ツ時からお出かけになる。本番。写し物をし、夜番を九ツ半まで勤める。
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〈その他の記事〉
・幸左衛門殿は松枝町の借家から夜六ツ半に御屋敷に戻られた。善右衛門殿、太次兵衛殿が松枝町にやって来られたとのこと。
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嘉永7年10月18日(1854年)
#五郎兵衛の日記
朝掃除後、五ツ半に松枝町の借家へ向かう。
長らく性学を離れていた善右衛門殿と太次兵衛殿が改心し、江戸に来た。幽学先生はお喜びになり、「無駄遣いを避け、正しい道を歩むことが財産を築く秘訣だ」とお話しになられた。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
幽学が刑事裁判にかけられ、江戸にとどまらざるをえないため、教え(性学)から離れる者もいました。しかし、今日の記事に出てくる善右衛門や太次兵衛のように幽学の教えに戻ってくる者もいたのです。
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〈詳訳〉
朝掃除、五ツ半に松枝町の借家へ向かう。
善右衛門殿と太次兵衛殿は、長い間性学から遠ざかってしまい、自分のことだけを考えてしまうようになってしまった。そのことで問題が多くなり、改心をしたとのことだ。
幽学先生はお二人が改心されたことにお喜びになり、「家計にしっかりと取り組まなければ、財産を築くことなど出来はしない。一家共に心を決めて真面目に働き、無駄遣いをしないようにすれば、仕事もうまく回るようになるから、財産を築くことができること間違いなし。
家の中を修めるには、まずは自分が良き者となることだ。そうすれば、自然と家の中が修まってくるものだ。
道というものは、正しく、心が広くなければいけない。自分の事や道友の中でも身内の者ばかりに気を配っているような、そんな狭い根性ではいけない。財産を築くことも、、道を行うことも、まずは自分自身を修め、見本を示し、教えを広めることが大切である。これが私の伝えたいことだ。」
幽学先生は晩にこのような教えを語った。この夜、岡飯田村の勘左衛門殿、俊斎子、小見川茂兵衛殿、布野村の喜兵衛殿の奥様も借家におられた。
小生らは九ツ過ぎまで松枝町にいた。
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嘉永7年10月19日(1854年)
#五郎兵衛の日記
蓮屋(公事宿)から手紙が届いた。田安家の御代官磯部様が明朝か夕方お会いになりたいとのこと。蓮屋に行くと、「明朝早めにお出でになった方がよろしいでしょう」とのことで、本日松枝町の借家に泊まり。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
田安家は荒海村(現成田市荒海)を領有しており、同村の農民も呼出されている本件裁判に、農民側に同情的な立場をとっています。今回の面会要請も裁判の審理促進に関することの打合せと思われます。
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〈詳訳〉
・蓮屋(公事宿)から手紙が来て、田安家の御代官磯部様が明日の朝か夕方に来てほしいと仰っているとのこと。早く打合せた方が良いと思い、すぐに蓮屋に行ったところ、「明朝にお出でになれば良いですが、早めにお出でになった方がよろしいでしょう」とのことであったので、借家に戻って泊まった。
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〈その他の記事〉
・早朝、俊斎子、茂兵衛殿、勘左衛門殿、喜兵衛殿が江戸を発ち、帰村。
・高松様とお定様が借家に御出になられた。高松様々なはそれから御城へお出でになった。良左衛門君は高松様の御供で御城に行き、借家には九ツ過ぎに戻った。お定様は七ツ時にお帰りになった。晩に節五郎殿が来た。
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嘉永7年10月20日(1854年)
#五郎兵衛の日記
早朝、市ヶ谷の田安家の御代官様の御宅へ行く。節五郎殿と共に磯部様に面会。「これまで御奉行所を動かすことができなかったが、今回は手応えがあるぞ。書付案のとおりに書いてくれ。」と仰り、書付案をいただいた。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
幽学裁判はひたすら呼出し待ちの状態が続いており、田安家の代官磯部様は、なんとか打開したいようです。奉行所に田安家の名前で働きかけをしようという試みでしょう。これまでは残念ながら成功していないのですが、今回はどうなるでしょうか。
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〈詳訳〉
・早朝、市ヶ谷の田安家の御代官様の御宅へ節五郎殿と二人で行く。磯部様とお目通りできた。「これまで御奉行所を動かすことができなかったが、今回は手応えがあるぞ。書付を書いておいたから、このとおりに書いてくれ」と仰り、書付をいただいた。
・磯部様との面会は五ツ時に終わり、節五郎殿は松枝町の借家に、小生は番町の御屋敷に戻った。
・このことを幸左衛門殿と宜平殿に話すと、お二人とも仕事を終えた後に松枝町の借家に行かれた。
・夜六ツ時、本件でこれまで届けた日が分からないから、分かるものを持ってきてくれとの連絡があり、小生は松枝町に日記帳を持っていった。幸左衛門殿は日記帳を調べて、日を特定することができ、四ツ時には七人で借家にて泊まり。
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