ひものやとの裁判解決へ 文政12年11月中旬・色川三中「家事志」
土浦市史史料『家事志 色川三中日記』をもとに、気になった一部を現代語訳したものです。
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文政12年11月11日(1829年)晴
ひものやとの裁判の件で、趣意書を御奉行所に提出した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「趣意書」の提出期限は今月13日となっていました(11月8日条)。三中は趣意書を昨日完成させ、町年寄や名主にチェックしてもらう用意周到ぶり(11月10日条)。締切まで2日余裕をもっての提出です。
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〈その他の記事〉
・「れい」を堀田原尚一郎の妻とすることに取決めたとのこと。明日飛脚で扇箱1つ、結紙年代五等を送る。隠居(祖父)が江戸に登る際に婚礼を執り行う予定。
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文政12年11月12日(1829年)晴
本日夜、田宿の戸与吉が博打で検挙され、腰縄となったところ急死。そのため、様々な問題が生じている。
#色川三中 #家事志
(コメント)
田宿(現土浦市大手町)に住んでいる戸与吉という者が、博打を行った嫌疑で逮捕され、腰縄をつけられました。その後同人は急死。逮捕する際に問題ななかったか等、土浦藩や町役人は取調べをしなければならないような事態です。
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〈その他の記事〉
・「きさ」を谷田部へ行かせた(千代松同道)。
・等覚寺の檀家の者が、「本町の近江屋さんと川口の上総屋さんの二人が来られます。町役人の方々にお願いがあるとのことで、この度お茶を差し上げたいのですが、今夕お出でいただけますか」と言ってきたが、病気のため欠席とした。入江(名主)や町年寄同役は夜に等覚寺へ行ったとのこと。
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文政12年11月13日(1829年)終日雨
入江氏(名主)方へ行き、記録を記した。終日書き物。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「記録を記した」は日本語としてはおかしいのですが、今日の原文が「記録記し申候」なので、ちょっとよく意味がわからず、そのままとしました。
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文政12年11月14日(1829年)晴
本町の内田六蔵から「ひものや鉄五郎は自らの過ちを後悔し、謝罪すると言っている。証文を出します」との話しあり。「よく考えて返答します」と申し上げ、帰っていただいた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
ひものやの件で新展開です。ひものや鉄五郎が自分の非を認めて、解決を願っているという意向が、代理人(内田氏)からもたらされました。この内容に不満はないはずですが、これまで何度か煮え湯を飲まされてきた三中は、即答を避け、後日返答するとしています。
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〈詳訳〉
本町の内田六蔵が来た。「ひものや鉄五郎は、自分の誤りを後悔しております。貴家様および入江様(名主)にどのようにでも謝罪し、証文を差し出すと申しておりますので、ご勘弁いただけないか。どうかお許しいただくようお願いしています。」
話しは聞いたが、よく考えた上で返答したいと申しあげ帰っていただいた。
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〈その他の記事〉
・江戸の行徳川岸の金子紋兵衛が盃一つを持参し、見舞いに来られた。
・水戸様御俱衆が、水戸から江戸にお帰りになるので、通りが混雑している。尾張様のご名代がお帰りに土浦に寄られ、入江氏(名主)がご本陣に行った。
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文政12年11月15日(1829年)晴
丸木屋、中惣、隣主人の家で、髪置き・袴着があったので、酒や雪駄(祝いの品物)などを贈ったのだが、どれも受け取ってもらえず。
#色川三中 #家事志
(コメント)
江戸時代の七五三の記事。髪置き・袴着は七五三の由来になった行事です。丸木屋さん等でこの行事があったので、三中はお祝いの品を贈ろうとしていましたが、固辞されてしまいました。
なお、「髪置き」は3歳の子の健やかな成長を願う、平安時代にもあった儀式。袴着は、
幼児が初めて袴をつける儀式です。
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〈その他の記事〉
・茂吉と嘉兵衛(いずれも従業員)は鹿島へ営業に出立。
・惣三郎の家へ祝儀として、駿河小半紙十状を贈った。
・夜に内六(内田六蔵)が来られた。
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文政12年11月16日(1829年)晴
朝、入江(名主)と栗山(町年寄)と面談。ひものやの件で、内田六蔵からの話しにどのように返答すべきか打合せ。間違いがないように念には念を入れる。夜には町組小頭のところへ行き、打合せ。
#色川三中 #家事志
(コメント)
ひものやの意を受けて、内田六蔵は「ひものや鉄五郎が謝罪するが受け入れてもらえるか」と訪ねて来たことに対し(11月14日条)、三中は名主や町年寄、藩の役人(町組小頭)と念入りに打合せをして方向性を協議しています。
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文政12年11月17日(1829年) 晴れのち曇り
ひものや一件につき、奉行所から明日出頭せよとの呼出あり。内田六蔵が謝罪の件について尋ねてきた。呼出しが来たため謝罪受け入れは困難と言ったが、内田の懇請により、裁判の日延をすることとした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
ひものや側が訴訟を起こし、三中が趣意書を提出したので、奉行所で両名を呼出しています。審理が行われようとしたところ、ひものや側が懇請。三中も承知し、裁判の期日は延期。このまま合意内容のとおり解決するとよいのですが。
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〈詳訳〉
七ツ時、ひものや鉄五郎一件につき明日出頭せよとの呼び出しあり。出頭すべき者以下のとおり。
入江全兵衛
桂助
瀬兵衛
鉄五郎
組合
年寄衆全員
このような呼出しがあった後、内田六蔵が来てた。
内田「先日、ひものや鉄五郎から謝罪をするという件につきましては、どのようなご返答となりますでしょうか」
私「御奉行から呼出しが来てしまった以上、謝罪を受け入れて日延べなどはできない」
内田「いや、そこを何とかお願いします」
と重ねてお願いされたので、組合の請人に間に入ってもらって話しを進めた。
「今回は暮れまでには間違いなく引き払います。その趣旨として金二分を年末の店賃で支払います。そのため御奉行所での期日は日延べを願います」とのことであるので、これを承知し、日延べ願書に訴答両印し、奧印を惣年寄衆が行って手続きを済ませた。
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〈その他の記事〉
・先日「れい」へ酒井様のお姫様が、御公儀の姫様の衣服は、母がその後仕立て直し、今日隠居(祖父)が神龍寺へ持参した。
和尚は、「この経緯は詳しく書付けて置、収めさせていただきます」と仰っていたとのこと。
・中高津の庄左衛門殿が参り、糯継米について話があった。
・一久弥様が病気とのこと。これを湊に知らせたいが、直接知らせるのは憚られるので、いせや太郎右衛門殿が来られたのを幸い、伝えてもらうこととした。
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文政12年11月18日(1829年)
大雨
#色川三中 #家事志
(コメント)
今日は「大雨」と天気だけで、他に記事はありません。
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文政12年11月19日(1829年)晴
・与兵衛(従業員)が西在(西ルート)に営業に出立。
・四ツ半時に竹中七蔵から聞いたところによると、内田から書状が届いたとのこと。
#色川三中 #家事志
(コメント)
従業員与兵衛が西在の行商に出発しています。「西在」は、西の方の在所の意。「在所」とは「都会から離れた地方。田舎」ですから、土浦から見て西方の村々をこのように読んでいたのでしょう。そこで、「西ルート」という言葉を補いました。
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文政12年11月20日(1829年)夜中雨降 晴
隠居(祖父)が「れい」の婚礼のため江戸に出発。下記のとおり贈りもの。
堀田原へ 上下代金二百疋
今川勾当へ 肴代金百疋
#色川三中 #家事志
(コメント)
「隠居」は三中の祖父のこと(三中の父親は既に亡くなっています)。11月11日条での以下の記事の続報です。
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「れい」を堀田原尚一郎の妻とすることに取決めたとのこと。隠居(祖父)が江戸に登る際に婚礼を執り行う予定。
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(その他の記事)
・神龍寺の惣益講が東光寺で今日開札。䦰(くじ)がかなり売れたとのこと。
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