プロコフィエフ:交響曲第5番
指揮:ジョージ・セル
管弦楽:クリーヴランド管弦楽団
録音:1959年10月24日、31日
LP:CBS/SONY 13AC 797
セルゲイ・プロコフィエフ(1891年―1953年)は、現在のウクライナ生まれのロシア人作曲家。サンクトペテルブルク音楽院で学ぶ。ロシアが革命の嵐に包まれる中、1918年、プロコフィエフはアメリカへの移住を決意。シベリア・日本を経由してアメリカへ5回渡り、さらにパリに居を移す。20年近い海外生活の後、1936年に社会主義のソヴィエトへ帰国。このように何回も海外移住をを繰り返し、最期には祖国に帰還できたということは、当時のソ連政府がプロコフィエフの行動を黙認するしかなかった、ということであろう。つまり、それほどプロコフィエフの世界的な名声が高かったことの証だ。1948年、プロコフィエフは、ジダーノフ批判の対象となるかとおもえば、1950年度のスターリン賞第2席を得るなど、当時のソ連政府のプロコフィエフへの評価は大きく揺らいでいたようだ。偶然ではあるがプロコフィエフの死は、スターリンの死と同年同月同日であった。「スターリンの死が国家的大事件であったのに比べ、プロコフィエフの死は誰も知らなかった」と、同じロシア出身で、亡命の経験を持つウラディーミル・アシュケナージは、プロコフィエフの晩年の淋しい死について語っていた。そんなプロコフィエフが作曲した交響曲の中で、第1番「古典交響曲」と並び人気の高い交響曲第5番を収めたのがこのLPレコードだ。1941年にヒトラーの率いるドイツ軍が独ソ不可侵条約を一方的に破棄してソ連に攻め入る現実を見て、かつてない祖国愛に目覚めて作曲したのが、この交響曲第5番と言われている。初演は1945年、モスクワのモスクワ音楽院大ホールにて、プロコフィエフ自身の指揮それにモスクワ国立交響楽団の演奏で行われ、ソヴィエト全域にラジオ放送で中継されたという。このLPレコードは、ハンガリー出身の名指揮者ジョージ・セル(1897年―1970年)がクリーヴランド管弦楽団を指揮した録音。ジョージ・セルとクリーヴランド管弦楽団のコンビは、1946年から1970年の24年間にも及んだが、この録音は1959年なので、その中間期の録音に当る。実際聴いてみると、重厚で威厳のある第1楽章、軽快でスケルツォ風の第2楽章、美しい旋律が次々と現れる叙情的な第3楽章、そして勇猛で力強い雰囲気に満ちた第4楽章からなる全4楽章を、実に流麗に、しかも内容がぎっしりと詰まった演奏を展開しており、聴くものの心を掴んで決して離さない魅力に富んだものとなっている。(LPC)