旅してマドモアゼル

Heart of Yogaを人生のコンパスに
ときどき旅、いつでも変わらぬジャニーズ愛

第4回 名 ~ name ~

2008-04-25 | 円熟途上エッセイ「桃色の独り言」
今回のエッセイのテーマ「名」も悩まされました。
書きたいことを、いったいどうまとめたらいいのか、悩みました。

悩んでいるうちに、4月スタートのドラマが続々と始まり…
気づいたら20日という期日が過ぎてしまいました…


さて。
今回のエッセイでは、本家から内容を引用させていただきました。
また、気軽に感想などいただけたら嬉しい限りです。


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古今東西、この世のすべてのものにおいて、名前のないものはない。
ミクロンの世界に生きる極小な微生物でさえ、それぞれの名前を持っている。
そして、私たち人間は、同じ種の存在でありながら、個別に異なる名前を持ち、その名が個人のアイデンティティとして成立している。全世界を見れば、なんとバラエティ豊かな名前が存在していることか。
もしかすると、野生に生きる動物の世界でも、お互いに異なる名前を持っているのかもしれないが(笑)、それは私たちにはわからないことだ。


私は子供のころから自分の名前が嫌だった。今でもあまり好きではないが。
私の本名をご存じの方はわかると思うが、私の名前を普通に読むと「まちがい」になる。おそらく100%の確率で、私の名前は「のりこ」と読まれる。
学生時代、新学期が始まるたびに、新しい先生が必ず私の名前を読み間違える。そのたびに「あのー違います」と訂正するのが、いやで面倒でたまらなかった。中学・高校のように教科ごとに教師が変わるようになってからは、毎回訂正するのが面倒になって、最後まで「のりこ」で通してしまったこともある。

必ず読み間違えられる名前のうっとうしさ。
しかも、漢字自身が角ばっていて堅苦しい雰囲気を醸し出しているのも嫌だった。

しげも、エッセイ「青い独り言」の中でこんなことを言っていた。
「生まれたときから与えられている名前というものに、僕は理不尽さを感じていた。どうして僕は加藤成亮なのか。」
同感だ。なぜ、死ぬまで一生背負っていかなくてはならない自分の名前が、自分で好きに決めることができないのだろうと私も思う。
きっと、私の親はいろいろなことを考えた上で、この名前をつけてくれたのだと思う。それを頭から嫌いだ、好きではない、などと言うのは大人げなく、本当に申し訳ないと思うのだが、それでも、どうしても、私は自分の名前を好きになれない。

社会人になり、職場で名刺を作ってもらうときに、名前だけをひらがなにしようとしたことがある。ひらがなのほうが、名前全体が柔らかい感じに見えたし、これなら読み間違えられることがないと思ったからだ。が、私の目論見は、「ふりがなをふればいいですよね」という人事担当者の余計な(笑)アドバイスによって打ち砕かれた。
たしかにその通りであって、自分の名前の見た目が気に入らないから、ひらながにしたかったのだとは、さすがに言えなかった。

ネット上で使うハンドルネーム。自分で好きな名前がつけられるというだけでただ嬉しかった。本名からはまったく結びつかない「るるりん」や「あかね」を使っているのは、子供のころから私の中にあった、のびやかで女の子らしい柔らかい名前に対する憧れからだ。
嫌いな本名を使わなくていい世界。私にとってネットの世界は、そういう意味でも心地いい。ただ、その本名を隠した匿名性が、ネット社会の暗部を生み出してもいるのも事実だけれど。

ハンドルネームにペンネーム、ニックネームも含めれば、一人の人間が持っている名前は、自分の本名以外に複数あるのが今では普通だ。とすると、地球上に存在する「名前」と呼ばれるものは天文学的な数になるのではないだろうか。その天文学的数字の中の一つに私の本名がある。この名前が自分のアイデンティティなのだと言ったところで、圧倒的な数の中で、その名前にいったいどれほどの存在感があるというのだろう。

「名前なんてどうでもいい。名前やあだ名を勝手につけられたところで大事なのはそこではない。…(略)僕は僕なのさ」
しげの出した結論に、私の中でずっと固執し、私を縛りつけていた何かが、あっさりと解けた。
そうなのだ。読み間違えられる名前がうざったいとか、名前の響きが古臭くて可愛くなくて気に入らないとか、そんなことは、私が私であることとまったく関係のないことなのだ。
「名は体を表す」という言葉があるが、名前が「私」を作るわけじゃない。「私」を作るのは私自身であって、私につけられた名前は、「私」という人物を指し示す役割を持っているだけなのだ。
私は今まで自分の名前に負けていた。勝手に自分の名前に負のイメージを抱き、それを自分の欠点だと思っていただけだ。文字通りの「名前負け」だ。
しげの言う通り、私がどんな名前であろうと、私は私でしかない。
名前は「私」の後からついてくるものなのだから。



ちなみに、私の名前は「ふみこ」という。



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引用出典 : 集英社刊「Myojo」2008年5月号 57頁「加藤成亮の発展途上エッセイ『青い独り言』」