「何しとるん?」
まさかこんな場所で、彼の声を耳にするとは思ってもいなかった私は、一瞬聞き違いかと自分の耳を疑った。
「引っ越すんか?」
彼が私の顔を覗き込みながら聞いてきた。眼鏡をかけた彼にドキッとして、目があった瞬間、なぜだか照れくさくなった私は茶化すように言った。
「あ、本物だ」
「なんやねん、ホンモノて。俺のニセモンがおるんか」
「しばらくずっと会えないって思ってた」
「俺かて休みの日くらいあるわ」
「そっか」
「充電せなあかんしな」
「大阪に帰んないの」彼の充電といったら、地元大阪に帰ることだ。
「時間ある時はな」
「じゃあ時間がない時だけ、私のとこに来るってこと?」
「おまえ、なに人の揚げ足取ってんねん」
「ゴメン」私は笑いながら言った。
商店街の不動産屋の前で、並んでしゃがみ込んでいる私たちの姿は、端から見たら新居を探している新婚夫婦みたいにでも見えるだろうか。
「で、引っ越しでもするんか?」
「どうしようかなあ」
「え?ホンマに考えてんの?」
彼が頓狂な声をあげた。私はそれに肯定も否定もしなかった。
「ピアノを置きたいんだよね」
「ピアノ、今の部屋でも置けるんちゃう?」
「置けなくはないけど防音をしないといけないし、めんどくさいじゃん。それなら、最初から楽器オーケーな部屋に移った方がいいかなって思ったの」
だが、店の表に出ている物件情報の中には、そんな部屋は出ていない。本気で探したければ、不動産屋に直接相談するしかない。
「ウチの近くに引越たらええやん?その方がおまえんち行きやすいし。ここ山手線のほぼ反対側やで。遠すぎや」
「あんな家賃の高いとこヤダ」
「ここかて特別安くはないやろ」
「そりゃそうだけど。私、この街が好きなの」
私は立って後ろを向いた。
夏の昼下がり。商店街を行き交う人々の中に、私の隣でしゃがみこんでいるアイドルに気づいた人は誰一人としていない。かといって、他人に無関心という街ではない。馴染みの店に顔を出せば、お店の主人が笑顔で声をかけてくるような街だ。
「うち来る?」
私に続いて立ち上がった彼に、聞く必要のないことを聞いた。
「おまえアホか。俺がなんでここにいると思てんねん」
「そっか」
「しょうもない。この暑さでボケたんちゃうか?」
私の頭を手でクシャクシャと乱してから、先に歩き出した。
「もう」前髪を直しながら、彼を追って横に並んだ。
仙台の七夕飾りには遠く及ばないが、小さな笹竹にカラフルな短冊を吊した七夕飾りが、商店街の各店舗を彩っている。どこかの店の軒先にでも掛かっているのか、優しげな風鈴の音が耳をかすめて、静かにアーケードの中を通り過ぎていった。
私は歩きながら、隣の彼をそっと見上げた。
前よりも2人で会う時間は減ってきているが、1年に一度の逢瀬しか許されていない織り姫と彦星よりはマシかもしれない。それにしても、この夏、仕事は確実に忙しくなっているはずなのに、彼のその端正な横顔に疲れはまったく見えない。この人は本当に仕事が大好きなんだなと、つくづく思う。
「なんで急にピアノ置こう思たん?」
彼の視線が私に下りてきて、私は慌てて彼から目を離して前を向いた。
「大した理由じゃないの。友達の結婚式で弾く機会が時々あるんだけど、その練習のためにいちいち実家に戻るのがめんどくさくって。今の部屋にあると便利かなって思ったの」
「ホンマに大した理由やないな」
彼は笑って言った。
「ピアノの練習で実家に帰ったってええやん。実家に帰るんは盆暮れだけなんて言うたら寂しいもんやで、親からしたら。ましておまえ、一人娘やろ。親孝行や思て、時々両親に元気な顔見せたほうがええんちゃうか」
どうしてこの人は、こういう説教めいたことを、さもなんでもないことのようにさらっと言えるんだろう。人一倍、家族思いな彼だからこそ、自然と出る言葉なのかもしれないが。押しつけがましさの欠片もないその言葉に、私は素直に「そうだね」と頷いた。
商店街の一角に置かれた大きな笹竹の周りに、子供たちが集っていた。幼い字で紙いっぱいに願い事を書いた短冊を、小さな手で一心不乱な表情でくくりつけているのを見ながら、ふと思う。私があれくらいの子供の頃、私は星に何を願っていたのかな?きっと子供心を膨らませて、夢に溢れた願いがいっぱいあったはずなのに、何一つ思い出せないのが切ない。
「ねえ、子供の時、七夕に何をお願いしたか覚えてる?」
「覚えとるわけないやろ、そんな昔んこと」
そんなら、おまえ覚えとるんか?と逆に聞かれて私は首を横に振った。
「七夕に願いごとって何やねんな。織り姫も彦星も自分らのことだけでもういっぱいいっぱいで、他人様のお願いを叶える余裕なんかないで」
別に、織り姫と彦星にお願いしてるわけじゃないと思うけど、と可笑しくなった。
「まあ言うても、大人んなったら、願いごとは叶えてもらうもんやなくて、自分でなんとかするもんやけどな」
「でも、星に願うって、なんか夢があっていいと思うけど」
「そやな。夢はあるなあ」
「でも、七夕の日ってあんまり晴れたことないじゃん。雨降ってたり、曇ってたり、子供の時、天の川が見れなくて、いっつもガッカリしてた」
「今年はどうなんやろな」
「うーん、週間の予報だとダメみたいだったな」
「なんや、おまえ、願いごととかあるん?」
「あるよ」
もちろん、願いごとはたくさんある。自分の努力次第で叶う願い、誰かの協力があれば叶えられる願い、相手の気持ちひとつで叶うかもしれない願い……
アーケードを抜ける手前で、彼が立ち止まった。暑さを含んだ眩しすぎるほどの陽射しがアスファルトに照り返して、外の風景がハレーションを起こしたように白浮きして輝いている。私を見下ろす彼の顔にも光が当たって、はっとするほど美しい陰影が作られていた。
「おまえの願い、俺が叶えたろか」
一瞬、ほんの一瞬だけど、私を取り巻く世界から音が消えて、時間が止まったような気がした。冗談なのか、本気なのか。ざわめく気持ちを抑えるように、私は腕を組んで微笑んだ。
「言うね。神様でもないのに」
「知らんのか。神やで、俺」
「へえ、神様だったんだ。じゃあ、神様なら私の願い、わかってるよね?」
「もちろん。ようわかってるで」
表情ひとつ変えずに、平然と言ってのける彼に思わず笑い出しそうになった。でも、と思う。もしかしたら、本当にわかってるのかもしれない。人の気持ちの機微に敏感な彼だからこそ。
「じゃあ」私は腕をほどいて、頭を下げた。
「今とは言わないけど、いつか願いを叶えてください」
「なんや、あらたまって」
私は彼を見上げて言った。「だって、あなたは神様だから」
照れたような表情が彼の上に浮かんだ。
「よう言うわ」
そう言って歩き出した彼の背中を見つめながら、心の中でつぶやく。
あなたにかなえてほしい願いはただひとつ。それはね……
私は、彼を追って、煌めく夏の太陽の下に飛び出した。
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七夕に合わせて、レコメン聴きながら、サクサクと気軽に書いてみました。
このめっちゃ忙しい合間の、いったいいつの話なんだということですよ。
ま、いうても、妄想ですから(笑)
最近、彼のあまりの多忙さに、なんや書きにくくなったなあと感じてたんだけど、あまり考えないことにしました
ヘラヘラ笑いながら、気軽に書きすぎたんで、かなり軽めの話に仕上がってますけども、その分、お気軽に感想などいただけたらと思います
ちなみに、肝心の「私の願い」は、話の中では語られてませんけども。
それは読者の方々の想像にお任せしようかと。
皆様なら、どんな願いを「彼」にかなえてもらいたいですか?