歴史作家 智本光隆「雪欠片―ユキノカケラ―」

歴史作家 智本光隆のブログです。

祈念―がんばろう東北―

桜の花に癒され、地震の爪あとに涙し・・・しかしながら確実に仙台の街は復興しております。1歩づつではございますが、前進していきたいと思っております―8年前、被災地からこの言葉をいただきました。今年もまた、春がめぐって来ました。今も苦しい生活を送られている方々に、お見舞いを申し上げます。本当に1日も早い復旧、復興がなされますよう、尽力して行きたいと思っております。

神剣の守護者コラム第1回―悪党楠木 大乱に起つ―

2014-01-04 07:32:29 | 神剣の守護者
先日、『神剣の守護者』をお読みいただいた、
知り合いの司書の女性のコメントです。


「面白かったですよ。前よりずっと読みやすい」
「どうもです!」
「でもさ、あれ最初のほう読みやすいんだけど、
あの人たち、どうしていきなりあそこにいるのかが良くわからない」
「・・・・・・・」



いえ、それはもともとは書いてあったのであった、
担当が「読みにくいから切れ!」と言ったからで(ブツブツ)
そこらへんの補足も交えて、ちょっとしたコラムを始めたいと思います。
(神代の国の旅はこれとは別に続きます)



1、河内の悪党・楠木正成一族

楠木正成―――『神剣の守護者』の主人公であるこの人物に関しては、
日本史上でもかなりの有名人。
戦前、日本人にとって「絶対に忘れてはいけない」人物のベスト3に間違いなく入ります。
ですがこの正成、、、
成年不明、前半生不明、系図は「正成には30系図があるが同じものは2つない」
と言われている状況。
現在において形成されている正成イメージは江戸時代、頼山陽の『日本外史』のよることろが大きく。
これってある意味、『竜馬がゆく』で坂本龍馬像が形成されたのと似ているかな?


その楠木正成で確実なことは、
河内国(大阪府南東部)に大勢力を誇った豪族だったということ。
河内一帯の陸運、水運に大きな影響力を持ち、辰砂(水銀)鉱山を支配したと言います。


これらの活動こそが「悪党」の名を冠しているわけですが、
これは現在の「悪い奴」という意味ではもちろんなく。
公家荘園を犯す武装集団という意味(逆に公家に雇われ、鎌倉幕府から荘園を守る例も)
そして「悪」という文字に顕される、何者にもとらわれない、
超人的な破壊者の意でもあります。
楠木正成という男は、そんな者たちの統領であったわけです。


ただ、やはり「反鎌倉幕府」的な色彩の強さは、活動初期から見えるのは事実。
早期に官職を得ていることなどから、宮方と近しい人間だったようです。
辰砂の商いを通じて、北面の武士の末裔・・・というのも考えられます。



2、南北朝の大乱と楠木一族

さて、、、楠木一族が歴史の表舞台に立つのがいわゆる「南北朝の大乱」
元弘元年(1331)に鎌倉幕府打倒を目指す後醍醐天皇と、
執権・北条高時一族がついに決裂。
後醍醐天皇は奈良北部の笠置山へ逃れ、幕府打倒の軍勢を糾合します。
正成はこれに早期に応えた武士のひとり。
勢力下の赤坂城に立て籠もって幕府軍を苦しめますが、
この時は笠置、赤坂の双方は落城してしまいます。


しかし、、、正成もそうですが、この後醍醐天皇という帝は不死鳥のように甦り。
島流しになった隠岐の島を抜け出すと、伯耆(鳥取)の船上山で各地の武士に
「北条を討て!」の檄を飛ばします。
これに集まった者たちの思惑は正直、同床異夢でしたが、
まずは復活した楠木正成が赤坂城を奪い返し、その奥地の千早城に立て籠もり、
幕府の主力軍の大半を引き付ける活躍。
岩石、巨木、熱湯など鎌倉武士のセオリーにない戦法を駆使し、
幕府軍を散々に翻弄。

この間、幕府方の陣営に大きな離反が2つありました。
幕府御家人の雄である足利尊氏が天皇方に寝返り、京都の六波羅探題を攻撃。
これで、畿内の幕府軍は崩壊します。
そして元弘3年5月。上野(群馬)の新田義貞が鎌倉街道の幕府軍を次々と打ち破り、
22日には鎌倉に突入。
源頼朝の開いた「鎌倉幕府」は、その命脈を絶つことになりました。


長いのでこのあたりでw
多分、今日中にあと1度かくかなw




皇居前の楠木正成騎馬像
作成者は高村光雲(東京美術学校)
住友財閥が別子銅山開坑200年記念に献上。
明治33年に設置されました。