結局翌日になっていて、どうもすみません
さて、第2回です。
3、建武の新政と楠木
鎌倉の幕府が滅び、後醍醐天皇を中心とした建武の新政(建武の中興)が始まります。
ですが。。。上手くいかないんですこれがw
同じ天皇方だった武士と公家が対立、
不遇をかこった武士の不満が日増しに強まります。
日野俊基など公家側の人材が、乱で失われていたのも大きかったものと。。。
この時期の正成は、不思議なことに目立った行動記録が残されておらず。
河内、和泉守護の他、武者所などに少し名前がある程度か・・・
一方で足利尊氏、新田義貞は政権内で勢力を得ます。
そして、わずか2年で新政は崩壊。
北条残党鎮圧(中先代の乱)のために鎌倉にいた足利尊氏が反旗を翻し、
天皇方を率いた新田義貞と、熾烈な合戦が始まります。
一度は新田が箱根まで攻めるも(箱根・竹ノ下の合戦)
足利の反撃にあって京都を奪われて・・・・
その後、楠木、北畠顕家の援軍を得て勢力を盛り返した宮方により、
尊氏は九州まで追い落とされます。
正成も京都の合戦で活躍が見られます。
「武の新田義貞」「智の楠木正成」といったところかと。
ただこの一連の尊氏追討戦・・・合戦場に遅刻するなど、
戦巧者正成らしからぬ「ミス」も目立ちます。
これは機動力が不足した、平地戦でも正成の限界か。
それとも、何らの意図があったのか・・・?
4、湊川の合戦
しかし、それらとはもう別に、世間の状況はすでに完全に後醍醐方に味方しておらず、
延元元年(1336)、水陸両軍で瀬戸内海を攻め上がってきた足利の大軍の前に、
楠木正成は湊川で戦死を遂げます。
新田義貞が海側の敵を叩こうと軍勢を東に動かしたところを、
尊氏の水軍が強襲上陸。
動かずにいた楠木軍は、敵水陸軍の挟み撃ちとなり、
正成は72名の一族郎党と共に自害して果てます。
「七たび生まれ変わっても敵を滅ぼす」の言葉が、
後世に
「七生報国」として伝えられることになりました。
享年43ともいわれますが、正確には不明。
「悪党」と呼ばれた男のその胸中は・・・『神剣の守護者』では推察を入れてみました。
新田義貞のほうはその後も京都で戦いますが、
奮戦の末に、越前に追われて非業の最期を遂げます。
後醍醐天皇は一度は尊氏と和睦するものの、吉野へ逃れ、、、
ここに尊氏が持明院統より立てた「北朝」と、
吉野の「南朝」が並立する「南北朝時代」が開始されます。
足利尊氏は北朝の天皇を動かし、みずからが征夷大将軍に就任。
新たな武家政権の誕生となります。これがのちに「室町幕府」と呼ばれます。
5、その後の楠木は?
さて、、、正成亡きあとの楠木家はというと、
家督は嫡男の楠木正行(まさつら)が継ぎました。
湊川の合戦直前、父正成から桜井にて後事を託されたという
「桜井の決別」が有名です。
「青葉繁れる、桜井の~」はうちの死んだ祖母も大好きでした(笑
その正行は父の死の12年後、四条畷の合戦にて戦死します。
楠木家の家督は生き残った正行の弟(正成三男)の楠木正儀(まさのり)に。
このころになると後醍醐天皇も崩御し、新田、楠木の目ぼしい武将も世になく・・・
足利の天下は定まっていましたが、
尊氏、直義兄弟の内紛のお陰?かで、南朝はしばらく命を保ちます。
楠木正儀は父、兄とは一線を画して、南朝と北朝の和睦に奔走するものの、
両陣営から白眼視されることもあり、頓挫。
最期は戦死とも、病死とも伝えられています。
明応3年(1392)に南北朝は合一。長い戦いは南朝の敗北により終わりました。
それでは・・・楠木は?正成の末裔たちはどこへいったのか。
その地は河内からも京の都からも、遠く離れた
伊勢で生きていました。
悪党楠木、次なる活躍の地は「神代の国」伊勢――
次回は・・・その前にやっぱり禁闕の変かな?
書き忘れていましたが、
本コラムで不明な点などありましたら、
このブログに書き込んでいただいてOKです。
もちろん、『神剣の守護者』の感想も!!
・・・答えられることと、ないことがあるような気もw
※誤字修正しました。