高崎駅の開業が明治17年5月、
前橋駅は同年の8月開業です。
また、焼きまんじゅうは食べるのにエネルギーが必要なので、
元気のない時には食えませんw
日本に学制が敷かれたのは明治5年8月のことです。
これを受けて、群馬県も学校設立へと動きます。
当時は第1次群馬県の時代で、県令は越後出身の青山貞(ただす)
ただ、そうは言っても当時は学校建設に関するノウハウもなければ、
資金もなければ人材もなし。
そこで青山県令はまず、啓蒙的な意味もあり県都・前橋に開校を急ぎます。
同年の11月22日、旧前橋藩藩校・博喩堂の建物をそのまま利用して、
県内初の小学校・厩橋学校(第一番小学校)の開学にこぎ着けます。
(藩校は同じ年に廃止)
なお、明治5年の開校はこの1校のみですが、
6年に入ると水沼学校(黒保根村)、原町学校(吾妻町)、敷島学校、桃井学校(前橋市)と、
次々に開校。数にすると、
明治6年 148校
明治7年 201校
明治8年 142校
と怒涛の開学ラッシュに!え~・・・足すと何校だw
そうはいっても当時は寺院、民家を学校にしたものが大半で、
明治8年時点で新校舎は46校だけです。
なお、厩橋学校は後に桃井学校と合併しており、
現在では校史は桃井小学校が継いでいます。
この学校設立に尽力したのが何度も登場しますが、
下村善太郎はじめ前橋の生糸商人です。
何せ、当時は「学校とは何だ?」「そこに行くと生き血を吸われるぞ」と、
本気で言われた時代。
そこで下村は、子供のいる家を一軒一軒回っては学校教育の必要性を説き、生徒を集めています。
それこそ、
自分の足で一件一件回って!!
また、桃井学校は県内最初の洋風新築校舎でしたが、
これを建てたもの下村。その他、教職員の給金三ヶ月分未払いが生じた時、
それを立替えたのも下村でした。
また、昼間に働く商人たちのために、商家の2階に夜学を開いてもいます。
これら教育への功績から、明治7年6月に熊谷県から下村に賞状と銀杯が授与されています。
楫取県令赴任は明治9年ですから、すでに学校教育の下地は出来ていました。
ただ、これが直で「就学率」に直結したかというと簡単にはいかず。
当時、授業料は月に50銭ほどが全国的な中、
群馬は25銭平均だったらしいのですが(地域差あり)
それでも明治9年の時点で50パーセントほど。
この時期の全県データはないのですが、特に女子就学率は低かったようです。
これは全国的な問題ではありますが、特に群馬は主産業が生糸。
そして、その生糸でももっとも高品質なものが、
農家が「座繰り」で生産する家庭内工業によるものでした。
(実際、製糸工場で作られたものはそれより品質が落ちました。
ちなみに、花燃ゆ先週の放送のように、生糸商人の店で糸を紡ぐことはありません)
これの担い手が女性になります。
「かかあ天下と空っ風」とはよく言われますが、
これはよく働く妻などを「うちのかかあは天下一(の働き者)」と、
夫達が自慢したのが語源。
というわけで、学校なんかいっている暇はない!
・・・という訳にもいかないのでw
そこで、県は明治11年になって「荒業」に出ます。
おそらくこの時期としては、全国的にも例は少ないであろう、
「女子小学校」を開校させます。いや、少ないというかあるのか?
明治11年1月、県都に
「前橋女児学校」を開学させます。
児童は当然全員女子です。
2年後には市内連雀町に、下村ら有志による寄付金で新校舎が建設されます。
なお、生徒数は
明治11年で598人、12年で585人・・・ですので、
まずますの好スタートを切ったのですが・・・
ですが、明治16年に前橋に大火があり、
せっかくの新築校舎も全焼してしまいます。
その後、学校を2つに分けて存続を図りましたが、
小学校の総数が増えて来たこともあり生徒数も減じて、
明治20年には廃校となりました。
では、女子教育はどうなったのか?
続きます。
桃井学校(現桃井小学校)
智本光隆