生糸改所は幕末の1861年に、
前橋藩が生糸の品質を管理するために創設したのが最初です。
明治11年、下村善太郎、勝山源三郎はこれを発展させて、
白亜洋風の前橋生糸改会所を建設させ、
すべての生糸工場で作られた生糸は、ここに集められて検査されました。
ただ、以前にもふれましたがもっとも質の高い生糸は、
工場産ではなく、農家が副業でつくったものです。
これは家庭内工業で桑生育から座繰りまで家庭内で行うので、
糸の良し悪しは、座繰る人間の腕によります。
なので、、、たとえ県令の義妹が現れても、
作業の手を止めることはありませんw
先週の回のラストシーン近くで、
阿久沢権蔵さんが小学校の地図を出していまして。
これについて、けっこうあっちこっちで
「あれは実際にどうなんだ?」とか言われてます。私も聞かれました。
作中、直前に西南戦争の話をしている場面があるので、
明治10年のことだと思われます。
黒字が従来からあった学校で、赤字が楫取県令が新規につくった学校とされていましたが、
お作りになった、先人たちの名誉のためですw実際の所・・・
あれは基本的にすべて明治10年には開校している学校です!
黒字校…厩橋、敷島、桃井、城田など明治5年11月から明治7年1月までの開校。
(総社街学校と大室学校のみ明治8年)
赤字校…細井、三俣、六供、増田など明治7年1月から同年11月の開校。
なんか、採算が取れる学校と取れない学校みたいだなw
時期不明校が5校ありましたが、明治7年を境にこうはっきり分かれているので、
総社街と大室はミスなんじゃないかという気もw
特に明治7年1~4月は開校ラッシュで、
地図中の38校の内、実に14校が開校しています。
ただし、当時はまだ熊谷県時代で第2次群馬県設立前、
そして県令は河瀬秀治の時代です。
楫取県令は同年の7月に熊谷県に赴任、群馬県入りしたのは明治9年です。
なので、10年にはこの学校はすべて揃っており、
新校舎建設などの「次の段階」へと進んでいる時期ですね。
そこのところ、涙の思いで学校建設に奔走した、
下村善太郎ら先人たちの想いを・・・
参考文献
『前橋市史 第四巻』昭和53年
智本光隆