歴史作家 智本光隆「雪欠片―ユキノカケラ―」

歴史作家 智本光隆のブログです。

祈念―がんばろう東北―

桜の花に癒され、地震の爪あとに涙し・・・しかしながら確実に仙台の街は復興しております。1歩づつではございますが、前進していきたいと思っております―8年前、被災地からこの言葉をいただきました。今年もまた、春がめぐって来ました。今も苦しい生活を送られている方々に、お見舞いを申し上げます。本当に1日も早い復旧、復興がなされますよう、尽力して行きたいと思っております。

前橋から花燃ゆ⑮群馬女子教育

2015-11-03 20:17:59 | 日記
さて、女子小学校を開学させた後は当然ながら、次は女学校が必要になる訳で。
明治15年、県庁前に「県立女学校」が開校されました。
実はこれは当時としては、画期的なことです。
日本初の女学校は明治5年に東京に開学した「官立女学校(東京女学校)」ですが、
これはわずか4年で廃校に。
この明治15年時点では日本に女学校は4校しかありませんでした。
ちなみに、その内の3校は女子師範学校ですので、
狭義の意味で「女学校」は皆無にも等しい状態。


唯一がどこか?と思ったら、
「八重の桜」で新島八重さんがいた京都の女紅場が前身の京都府女学校でした。
おお、何か微妙に群馬つながりがw
さて、当然「2位じゃダメなんです!」ということはまったくなく、
学校はスタートしたわけですが、これは残念ながら早計だったようです。
それというのも、この学校は最初は女子師範学校として計画されていたものが、
途中から女学校へと変更されたらしく。
初年時の生徒数は、わずか36名でした。
授業は「読書」「作文」「習字」「算術」「地理」「歴史」から成っていました。


卒業後の進路としては、東京女子師範学校(現お茶の水)に進む生徒もいたようで、
レベルはけっこう高かったようなのですが、
明治18年の不況で閉鎖に追い込まれました。残念・・・


しかし、以後も有志達によって私財が投じられ、学校は維持されました。
その後、この学校は明治21年に地元有志、
そして新島襄と群馬のキリスト教関係者、
アメリカン・ボードの支援を受けてミッションスクールとなり、
私立「前橋英学校(共愛学園)」として再出発して、
幼稚園から大学(前橋国際大学)まで備える、総合学園として今日に至ります。
(注…共愛学園の正式な校史には「県立女学校」は含まれていません)


ただ、この挫折が尾を引いたのか、
県立の女学校はその後は長らく開学されず、
明治32年になり「群馬県高等女学校」(現高崎女子高校)、
41年に「桐生女学校」(桐生女子高校)、
43年に「前橋女学校」(前橋女子高校)まで待つことになります。



前橋英学校は前橋英和女学校、共愛学園と名前を変えています。
写真は前橋英和女学校時代の校舎。


では、女子高等教育の場所がなかったのかといえばそうではなく。
まず、これは正確な時期が不明なのですが、
明治10年代の半ばに仙台の松操女学園(現明成高等学校)の分校があったようです。
ここで学んだのが、前にドラマの鈴木栄太郎のモデル?
(下村=阿久沢と違って可能性は低そうですが)かと取り上げた、
鈴木福次郎の長女で鈴木多満子(たま)です。
彼女の婿は松山出身の実業家・鈴木宗十郎で、
この2人が明治29年、前橋に立ち上げたのが「上毛裁縫伝習所」です。
(前にこの学校を前橋初の私立女学校と書きましたが、
共愛学園が7年先でした。すみません、訂正します)


学校は後に「明治裁縫学校」と改名しますが、
生徒数は200人を超え和装のみならず洋装、
そしてお茶は裏千家、お花は古流、作法は小笠原流を授業に取り入れます。
名前は裁縫学校のままですが本科、別科、研究科、更に師範化をおいて、
教員免許の取得を可能とした、総合学校として明治~昭和の群馬を代表する学校となりました。
また、群馬県内の裁縫学校設立者も、多くが明治裁縫学校の卒業生です。


大正15年時点の群馬の私立学校は男子1校に対して、女子15校です。
ある意味、共愛学園や明治裁縫学校の「活力」が、
公の力を上回ったとも言えますが・・・
残念ながら明治裁縫学校は戦争で校舎が全焼し、
その後復活したものの明治30年にその歴史を閉じました。
しかし、もしもドラマの鈴木栄太郎が本当にモデルなら、
子孫は女学校経営者になると作中の彼に教えたい!!(違うとは思いますがw)


この他、明治34年には「群馬県女子師範学校」が前橋に開学しています。
こちらは後に男子師範と合併して、現在の群馬大学教育学部、社会情報学部ですね。



明治裁縫学校。
なお、鈴木多満は群馬県の女性として初の藍綬褒章を受章。


参考、引用文献
『前橋市史 第3巻』昭和53年
『写真集 明治大正昭和 前橋』昭和54年




智本光隆