さて、そんな訳で新企画始めます!!
「豊臣蒼天録紀行」その第1回。
前々作『関ヶ原群雄伝』と、今作『豊臣蒼天録』をつなぐ意味でも、
第1回は「大谷一族の墓所」です。
「ミニ取材どうした!」って突っ込み入りそうだけど・・・
さて、智本光隆作品に、非常によく登場する大谷吉継とその一族。
吉継本人の墓が、関ヶ原にあることはよく知られていますが、
子孫の墓所は、群馬県伊勢崎市にございます。
赤城山龍昌寺(伊勢崎市堺伊与久)
御存知、大谷吉継は関ヶ原の合戦で戦死します。
さて、吉継には2人の男子がおりました。
嫡男は『関ヶ原群雄伝』の主役、『豊臣蒼天録』にも出演中の大谷吉治(吉勝)です。
吉治は関ヶ原の戦場から、弟の木下頼継と共に脱出します(頼継は後に病死)
吉治はその15年後、大坂夏の陣で戦死しますが、その子である大谷隆昌がこの地に蟄居したと伝わっています。
つまり、吉継の孫ですね。
後に厩橋(前橋)の酒井氏に奉仕した隆昌は、大坂夏の陣に徳川方として出陣、
つまり父の吉治、伯父(姉・安岐の夫)とは敵同士になった訳です。
これ大谷家存続のために知恵、そう解釈出来ますが・・・
前述の通り、父の吉治は夏の陣で戦死しますが、
徳川方の隆昌は戦功を認められ、この伊与久の地に50石を得ました。
後年、出家して同地に隆昌(龍昌)院を建立したと伝わっています。
現在でも寺には、大谷家の墓所が残されています。
大谷家墓所入口。そして隆昌の墓。
酒井氏は寛延2年(1749)に姫路に転封しますが、これに同行したかは?
なお、『関ヶ原群雄伝』で大谷吉継の正室は酒井重忠の娘としてありましたが、
それはここから考えた設定です。
ちなみに、石田三成の三女・辰姫が津軽信政に嫁ぎ、晩年を過ごした大館(太田市尾島)は、
この伊与久から、直線距離で6キロほどです。
吉勝と辰子の関係もこのあたりから着眼(w
この大谷家のその後、どうやらあまり知られてはいない様子。
この話も龍昌院さんから直接お聞きしたことを、中心に書いてます。
ですが、地域的にはこのような話、色々とあるはず。
なので今、探しているのは大谷吉治(吉勝)の墓です。
一度、参りたい!そして、デビューさせてくれてありがとうと伝えたい!!
「ここにある!」と御存知の方は、是非とも本ブログまで!!
「豊臣蒼天録紀行」その第1回。
前々作『関ヶ原群雄伝』と、今作『豊臣蒼天録』をつなぐ意味でも、
第1回は「大谷一族の墓所」です。
「ミニ取材どうした!」って突っ込み入りそうだけど・・・
さて、智本光隆作品に、非常によく登場する大谷吉継とその一族。
吉継本人の墓が、関ヶ原にあることはよく知られていますが、
子孫の墓所は、群馬県伊勢崎市にございます。
赤城山龍昌寺(伊勢崎市堺伊与久)
御存知、大谷吉継は関ヶ原の合戦で戦死します。
さて、吉継には2人の男子がおりました。
嫡男は『関ヶ原群雄伝』の主役、『豊臣蒼天録』にも出演中の大谷吉治(吉勝)です。
吉治は関ヶ原の戦場から、弟の木下頼継と共に脱出します(頼継は後に病死)
吉治はその15年後、大坂夏の陣で戦死しますが、その子である大谷隆昌がこの地に蟄居したと伝わっています。
つまり、吉継の孫ですね。
後に厩橋(前橋)の酒井氏に奉仕した隆昌は、大坂夏の陣に徳川方として出陣、
つまり父の吉治、伯父(姉・安岐の夫)とは敵同士になった訳です。
これ大谷家存続のために知恵、そう解釈出来ますが・・・
前述の通り、父の吉治は夏の陣で戦死しますが、
徳川方の隆昌は戦功を認められ、この伊与久の地に50石を得ました。
後年、出家して同地に隆昌(龍昌)院を建立したと伝わっています。
現在でも寺には、大谷家の墓所が残されています。
大谷家墓所入口。そして隆昌の墓。
酒井氏は寛延2年(1749)に姫路に転封しますが、これに同行したかは?
なお、『関ヶ原群雄伝』で大谷吉継の正室は酒井重忠の娘としてありましたが、
それはここから考えた設定です。
ちなみに、石田三成の三女・辰姫が津軽信政に嫁ぎ、晩年を過ごした大館(太田市尾島)は、
この伊与久から、直線距離で6キロほどです。
吉勝と辰子の関係もこのあたりから着眼(w
この大谷家のその後、どうやらあまり知られてはいない様子。
この話も龍昌院さんから直接お聞きしたことを、中心に書いてます。
ですが、地域的にはこのような話、色々とあるはず。
なので今、探しているのは大谷吉治(吉勝)の墓です。
一度、参りたい!そして、デビューさせてくれてありがとうと伝えたい!!
「ここにある!」と御存知の方は、是非とも本ブログまで!!
はじめまして。
母方の先祖が大谷吉継だと聞き、
今僕も詳細を調べています。
大谷吉治が関ヶ原後、僕の地元に
逃れてきたということも伝承で伝わっています。
関ヶ原から大坂の陣まで
流浪期間がありますよね。
吉治の墓はどこにあるかわかりませんが、
もしかしたら、と思ってコメント残させていただきました。
母方が大谷ですか!!本文で書いた通り、伊勢崎には吉治の流れを組む、大谷家の墓地があります。
Yoshiさんの地元の吉治伝承も興味深いです。当方は群馬県ですが、群馬には他に淀の方、そして石田三成が逃げ延びたという伝説があります。いずれ、このブログで紹介して行ければw
まもなく、第2巻が発売されます。大谷吉治も登場します!!今後とも、よろしくお願いします。
大谷吉継の直系の子孫であり、伊勢崎の大谷家のお墓の管理をしているものです。
大谷吉継の墓は確か岐阜県の関ヶ原にあったと思います。
どの程度大谷家を知っていて、興味があるのかわかりませんが、もし興味があるのであれば、一度お話をしても構いません。
ちなみにインタビューなどのアポはこちらのコメントやTwitterなどでお願いいたします。
伊勢崎の龍昌寺には数度、お邪魔させていただいております。一度、住職の方ともお話させていただきました。
関ヶ原の大谷吉継墓所へは2011年の秋に、取材をかねて参拝させていただきました。
私は現在まで3シリーズ(8冊)を発売させていただき、すべてのシリーズに大谷家の方(吉継、吉勝)が登場しています。
デビュー作の『関ヶ原群雄伝』は大谷吉勝が主人公でした。
シュミレーション戦記という性格上、時にご不快な描写となってしまうかも知れませんが、その時はご容赦下さい。今後とも、よろしくお願い致します。
お忙しい中コメントの返信ありがとうございます。
私の先祖である吉継、隆昌のお墓を参拝していただきありがとうございます。
おそらく吉継、隆昌とも喜んでいると思います。
龍昌院なのお墓に行って気づいたとは思いますが、吉継の家紋はつがいの蝶。隆昌の家紋は三つ巴となっています。三つ巴は現在の大谷家の家紋となっております。
実はですね、私の祖父母の自宅に大谷家の家系図が残されております。
昔の字体なので読みにくいですが、なかには吉継の名が記されております。
現在の大谷家は私の祖父が継いでいるので祖父母の自宅に保管してあります。私も絶対に大谷家を継いでいかないといけないみたいです!
もしご都合の合うときでしたら、私の祖父母、父親と相談して智本様とお話しできたらと思っております。
多分、大谷家子孫↑の方の家系図(?)というのは大谷家に配られた古文書のことかと思います。
そして我が家には、家系図の掛け軸が有ったものと思われます。私が結婚するにあたり、押し入れを整理するため掛け軸数十本(20~30本)を燃やしてしまい。その時紛失したと思われます。上↑の人の祖父だと思いますが、大谷家800年の歴史ある掛け軸を燃やすとはと、泣かれてあきれられたのを思い出します。
ちなみに古文書は写真にとってあり、懺悔の気持ちから、何とか解読しようと思います。
隆昌の墓は、写真に写ってはいませんが、写真の向かって右に大きな石碑が有ったと思いますが、それです。隆昌の文字と蛇が彫られています。
以前の方とは別の方ということでOKでしょうか?
家系図が配られているのですが、なるほど…
配られたということは「大谷吉継子孫会」のような組織があるということでしょうか?
私も右の石碑は見ているはずなので、ちょっと写真を整理して確認中です。もう一度行くのは簡単な距離ですが、このコロナ禍なのでちょっとした遠出も躊躇していますが・・・
ちなみに、私はデビュー作の主人公が大谷吉勝(吉治)でした。もう11年前になりますね・・・