歴史作家 智本光隆「雪欠片―ユキノカケラ―」

歴史作家 智本光隆のブログです。

豊臣蒼天録紀行24―お艶ヶ岩―

2012-08-07 00:31:35 | 豊臣蒼天録
さて、前回(前々回かw)で関西の取材地はすべて終わり、
3巻の舞台がほとんど出て来てないのですが、それもまた物語の事情。
・・・作者の都合ともいうが(w
ラストは群馬県の「お艶ヶ岩」です。


全国的にはほとんど無名だとは思いますが、
群馬県前橋の総社には、淀の方(茶々)が大坂夏の陣の後に、
大坂城から逃げ延びて、総社領主の秋元長朝に庇護されたという伝説があります。
秋元公は「天狗岩用水」という用水路をつくり、地元では今なお「名君」とされています。
『関ヶ原群雄伝』の時、名前だけはちょこちょこと出ていました。
家康の使いの役で(w
関ヶ原の合戦後、総社に1万石を得ます。



お艶観音像


淀の方は「大橋の局御縁」とよばれて、総社の地で暮らしましたが、
過去の悲劇に堪えられず、利根川に身を投げたといいます。
・・・と、これが表伝説(w
裏伝説では長朝が淀の方を我がものにしようとし、
気位の高い淀の方に拒まれたために、これを殺して利根川に沈めたとされます。
まあ・・・秋元公は地元の名君なので、裏伝説のほうはあまり採用されませんが。




この岩の上から、淀の方は身を投げたと伝わります。
利根川の流れは歴史上、何度も変わっており当時、この岩は利根川の西(総社側)に位置していたと、
明治元年の大洪水までは、利根川本流の中にあったようです。
現在は公園の中になっています。


この岩は「お艶ヶ岩」と呼ばれるようになり、
お艶観音像はお艶(淀の方)の330年忌に際し、
昭和34年に建立されたものです。
なお、戦前には細谷而楽作の慈光観音像があったということですが、
戦時中に供出されてしまったと。。。



総社には淀の方が乗って来た駕籠や、墓石とされるものもあるとか。
あ、そう言えば未見だ(w
・・・とは言っても、この伝説の信憑性はそんなにありません。
長朝が淀の方をかくまう理由がないですし、大坂夏の陣の頃は70歳ほどです。
長年、そんな感じに思っていたのですが、、、


この仕事をはじめて、知ったことですが、
大谷吉継一族の墓所は伊勢崎市に、石田三成の三女・辰子は大館(尾島町)で晩年を暮らしています。
そして、まったく未見なのですが、沼田市の正行院には石田三成が隠れ住み、
61歳まで生きたとの伝承と、墓があるとのこと。
意外とみんな近距離だなぁ・・・とか、ちょっと思っています(w
豊臣の御霊が、遠く離れた上野の地に眠る・・・のかな?





豊臣蒼天録紀行は、今回でひとまず終了です。
お付き合い頂きまして、感謝です。
えー・・・新作関係の記事はまだ出せないので、しばらくは別企画をやりたいと思います。
もうしばらくの、お付き合いを!


さて、今夜のなでしこはどうなるかな・・・

危ない試合だったが、勝った!
さあ、次は男子だ!!
そして、レスリングの松本隆太郎選手、銅メダル獲得おめでとう!!!

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
はじめまして (可和)
2012-08-07 18:22:32
智本先生はじめまして。
「豊臣蒼天録」読みました。秀頼主役ものはあっても、松平忠輝が活躍する話は知らないので、とても楽しかったです。
質問ですが、ラストシーンの時点で徳川が滅んで、どの大名がどこにとか、智本先生の中では決まっているものでしょうか?
大谷とか真田とか、戻ってきた宇喜多秀家とか?

次回作を執筆中とのことで、楽しみにしています!
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Unknown (智本光隆)
2012-08-15 21:20:10
はじめまして!返信遅れてすみません。ご愛読、ありがとうございました。
歴群新書の最終巻後の新世界は、作家でも書かれる方、そうでない方います。私の場合、家康を討ち取るまでの作品は、この『豊臣蒼天録』が初だったわけですが・・・

基本的には大まかには考えましたが、やっぱり作者自身も? という感じになります。矛盾が出るというか(w
ただ、お尋ねの3人に関しては、

池田輝政と一族が、徳川の抜けた東海へ。八丈島から戻った、宇喜多秀家が元の岡山へ。
真田は忠輝と関東へ。伊達の抑えとして、水戸へ(徳川方だった佐竹は改易・・・)
それで、大谷吉治は秀頼が越前一国を与えようとしたものの、辞退して半国(24万石)で敦賀に戻った。
・・・漠然とですが、そんな感じで考えています。

次回作はブログの通り昨日、一応の脱稿をしました。
今後とも、よろしくお願い致します!
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