歴史作家 智本光隆「雪欠片―ユキノカケラ―」

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豊臣蒼天録紀行3―方広寺梵鐘 世紀の難癖―

2011-10-23 21:30:27 | 豊臣蒼天録
本日、大河ドラマは「方広寺鐘名事件」でしたが・・・
こちらの紀行でも、それ行って見よう!!


前回訪問した豊国廟の阿弥陀峰の真下が、豊国神社です。
元々は方広寺が文禄4年(1595)、豊臣秀吉によって建立されてました。
その鎮守社として建立され、後陽成天皇より神号を賜ったのが豊国大明神です。
江戸時代には荒れ果て、明治になって再建されたのは前回、書いた通りですが・・・





豊国神社鳥居、及び正面参道。


阿弥陀峰を下りてここに着いた時、天気がなんか激変!!
あんま、写真の映りが良くないのはご容赦下さい。
地震や度重なる火災で、豊臣時代のものはほとんど残ってはおりません。
社殿の完成は明治13年(1880)、当時は別格官弊社に列せられています。
これについては当初、大阪に建立が予定されていたものの、京都市民の熱望で再建されたとのこと。


さて、そんな訳で豊臣時代のものはない中で、
これが残っているのは、歴史の必然なのか?





方広寺梵鐘。そして「例の文字」


今日まで「世紀のイチャモン」と語り継がれる、「国家安泰 君臣豊楽」の八字。
諱を避けなかった豊臣側の隙を突いたも言われていますが、大坂の陣開戦につながる事件となりました。
なお、大河ドラマでは何故か作品によって、発案者が違っていたりします。
今回は本多正純。。。
金地院崇伝が出ることは稀かな?まあ、自分も出したことはないですが(w


大坂の陣の勝敗は今更ですが、、、
さて、この一件は徳川幕府にひとつ、大きな「敗北」を残しました。
後世の多くの人々はこの鐘名事件を徳川の難癖と見て、そう語り継がれております。
で、数年に一度は大河ドラマでもそのように。
歴群でもそんな感じに(w
もっとも家康にとって、そこまでして潰さなければならない、それが豊臣家であった。
そして、豊臣秀頼であった・・・と。
そういうことなんだとは思います。
それこそ、己一代が泥の塗れても・・・



耳塚。


朝鮮出兵で削ぎ取った鼻、耳を葬った「耳塚」(鼻塚とも言います)は、
実は豊国神社正面です。なので、こちらへも。
(実はこれもかなり大きい・・・)

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