歴史作家 智本光隆「雪欠片―ユキノカケラ―」

歴史作家 智本光隆のブログです。

祈念―がんばろう東北―

桜の花に癒され、地震の爪あとに涙し・・・しかしながら確実に仙台の街は復興しております。1歩づつではございますが、前進していきたいと思っております―8年前、被災地からこの言葉をいただきました。今年もまた、春がめぐって来ました。今も苦しい生活を送られている方々に、お見舞いを申し上げます。本当に1日も早い復旧、復興がなされますよう、尽力して行きたいと思っております。

東北の誇り!!

2015-11-12 22:21:44 | 日記
ここのところ、大河関係の話しかそういえば取り上げていないw
なので、、、




通販で頼んでいたのが届く。
斎藤隆引退記念「東北の誇り」タオル。
ベイスターズ入団からの、大リーグを経て楽天に至る輝かしい球歴が!!
今年は引退する大物が多いのだが、
もうちょっとTVとかで見たい気もw



智本光隆

前橋から花燃ゆ⑰群馬学校物語

2015-11-08 21:18:15 | 日記
生糸改所は幕末の1861年に、
前橋藩が生糸の品質を管理するために創設したのが最初です。
明治11年、下村善太郎、勝山源三郎はこれを発展させて、
白亜洋風の前橋生糸改会所を建設させ、
すべての生糸工場で作られた生糸は、ここに集められて検査されました。


ただ、以前にもふれましたがもっとも質の高い生糸は、
工場産ではなく、農家が副業でつくったものです。
これは家庭内工業で桑生育から座繰りまで家庭内で行うので、
糸の良し悪しは、座繰る人間の腕によります。
なので、、、たとえ県令の義妹が現れても、
作業の手を止めることはありませんw




先週の回のラストシーン近くで、
阿久沢権蔵さんが小学校の地図を出していまして。
これについて、けっこうあっちこっちで
「あれは実際にどうなんだ?」とか言われてます。私も聞かれました。


作中、直前に西南戦争の話をしている場面があるので、
明治10年のことだと思われます。
黒字が従来からあった学校で、赤字が楫取県令が新規につくった学校とされていましたが、
お作りになった、先人たちの名誉のためですw実際の所・・・


あれは基本的にすべて明治10年には開校している学校です!


黒字校…厩橋、敷島、桃井、城田など明治5年11月から明治7年1月までの開校。
(総社街学校と大室学校のみ明治8年)



赤字校…細井、三俣、六供、増田など明治7年1月から同年11月の開校。



なんか、採算が取れる学校と取れない学校みたいだなw
時期不明校が5校ありましたが、明治7年を境にこうはっきり分かれているので、
総社街と大室はミスなんじゃないかという気もw
特に明治7年1~4月は開校ラッシュで、
地図中の38校の内、実に14校が開校しています。
ただし、当時はまだ熊谷県時代で第2次群馬県設立前、
そして県令は河瀬秀治の時代です。
楫取県令は同年の7月に熊谷県に赴任、群馬県入りしたのは明治9年です。
なので、10年にはこの学校はすべて揃っており、
新校舎建設などの「次の段階」へと進んでいる時期ですね。


そこのところ、涙の思いで学校建設に奔走した、
下村善太郎ら先人たちの想いを・・・


参考文献
『前橋市史 第四巻』昭和53年



智本光隆

前橋から花燃ゆ⑮群馬女子教育

2015-11-03 20:17:59 | 日記
さて、女子小学校を開学させた後は当然ながら、次は女学校が必要になる訳で。
明治15年、県庁前に「県立女学校」が開校されました。
実はこれは当時としては、画期的なことです。
日本初の女学校は明治5年に東京に開学した「官立女学校(東京女学校)」ですが、
これはわずか4年で廃校に。
この明治15年時点では日本に女学校は4校しかありませんでした。
ちなみに、その内の3校は女子師範学校ですので、
狭義の意味で「女学校」は皆無にも等しい状態。


唯一がどこか?と思ったら、
「八重の桜」で新島八重さんがいた京都の女紅場が前身の京都府女学校でした。
おお、何か微妙に群馬つながりがw
さて、当然「2位じゃダメなんです!」ということはまったくなく、
学校はスタートしたわけですが、これは残念ながら早計だったようです。
それというのも、この学校は最初は女子師範学校として計画されていたものが、
途中から女学校へと変更されたらしく。
初年時の生徒数は、わずか36名でした。
授業は「読書」「作文」「習字」「算術」「地理」「歴史」から成っていました。


卒業後の進路としては、東京女子師範学校(現お茶の水)に進む生徒もいたようで、
レベルはけっこう高かったようなのですが、
明治18年の不況で閉鎖に追い込まれました。残念・・・


しかし、以後も有志達によって私財が投じられ、学校は維持されました。
その後、この学校は明治21年に地元有志、
そして新島襄と群馬のキリスト教関係者、
アメリカン・ボードの支援を受けてミッションスクールとなり、
私立「前橋英学校(共愛学園)」として再出発して、
幼稚園から大学(前橋国際大学)まで備える、総合学園として今日に至ります。
(注…共愛学園の正式な校史には「県立女学校」は含まれていません)


ただ、この挫折が尾を引いたのか、
県立の女学校はその後は長らく開学されず、
明治32年になり「群馬県高等女学校」(現高崎女子高校)、
41年に「桐生女学校」(桐生女子高校)、
43年に「前橋女学校」(前橋女子高校)まで待つことになります。



前橋英学校は前橋英和女学校、共愛学園と名前を変えています。
写真は前橋英和女学校時代の校舎。


では、女子高等教育の場所がなかったのかといえばそうではなく。
まず、これは正確な時期が不明なのですが、
明治10年代の半ばに仙台の松操女学園(現明成高等学校)の分校があったようです。
ここで学んだのが、前にドラマの鈴木栄太郎のモデル?
(下村=阿久沢と違って可能性は低そうですが)かと取り上げた、
鈴木福次郎の長女で鈴木多満子(たま)です。
彼女の婿は松山出身の実業家・鈴木宗十郎で、
この2人が明治29年、前橋に立ち上げたのが「上毛裁縫伝習所」です。
(前にこの学校を前橋初の私立女学校と書きましたが、
共愛学園が7年先でした。すみません、訂正します)


学校は後に「明治裁縫学校」と改名しますが、
生徒数は200人を超え和装のみならず洋装、
そしてお茶は裏千家、お花は古流、作法は小笠原流を授業に取り入れます。
名前は裁縫学校のままですが本科、別科、研究科、更に師範化をおいて、
教員免許の取得を可能とした、総合学校として明治~昭和の群馬を代表する学校となりました。
また、群馬県内の裁縫学校設立者も、多くが明治裁縫学校の卒業生です。


大正15年時点の群馬の私立学校は男子1校に対して、女子15校です。
ある意味、共愛学園や明治裁縫学校の「活力」が、
公の力を上回ったとも言えますが・・・
残念ながら明治裁縫学校は戦争で校舎が全焼し、
その後復活したものの明治30年にその歴史を閉じました。
しかし、もしもドラマの鈴木栄太郎が本当にモデルなら、
子孫は女学校経営者になると作中の彼に教えたい!!(違うとは思いますがw)


この他、明治34年には「群馬県女子師範学校」が前橋に開学しています。
こちらは後に男子師範と合併して、現在の群馬大学教育学部、社会情報学部ですね。



明治裁縫学校。
なお、鈴木多満は群馬県の女性として初の藍綬褒章を受章。


参考、引用文献
『前橋市史 第3巻』昭和53年
『写真集 明治大正昭和 前橋』昭和54年




智本光隆

前橋から花燃ゆ⑭群馬教育開花

2015-11-01 20:28:57 | 日記
高崎駅の開業が明治17年5月、
前橋駅は同年の8月開業です。
また、焼きまんじゅうは食べるのにエネルギーが必要なので、
元気のない時には食えませんw


日本に学制が敷かれたのは明治5年8月のことです。
これを受けて、群馬県も学校設立へと動きます。
当時は第1次群馬県の時代で、県令は越後出身の青山貞(ただす)
ただ、そうは言っても当時は学校建設に関するノウハウもなければ、
資金もなければ人材もなし。
そこで青山県令はまず、啓蒙的な意味もあり県都・前橋に開校を急ぎます。
同年の11月22日、旧前橋藩藩校・博喩堂の建物をそのまま利用して、
県内初の小学校・厩橋学校(第一番小学校)の開学にこぎ着けます。
(藩校は同じ年に廃止)


なお、明治5年の開校はこの1校のみですが、
6年に入ると水沼学校(黒保根村)、原町学校(吾妻町)、敷島学校、桃井学校(前橋市)と、
次々に開校。数にすると、


明治6年 148校
明治7年 201校
明治8年 142校



と怒涛の開学ラッシュに!え~・・・足すと何校だw
そうはいっても当時は寺院、民家を学校にしたものが大半で、
明治8年時点で新校舎は46校だけです。
なお、厩橋学校は後に桃井学校と合併しており、
現在では校史は桃井小学校が継いでいます。
この学校設立に尽力したのが何度も登場しますが、
下村善太郎はじめ前橋の生糸商人です。


何せ、当時は「学校とは何だ?」「そこに行くと生き血を吸われるぞ」と、
本気で言われた時代。
そこで下村は、子供のいる家を一軒一軒回っては学校教育の必要性を説き、生徒を集めています。
それこそ、自分の足で一件一件回って!!
また、桃井学校は県内最初の洋風新築校舎でしたが、
これを建てたもの下村。その他、教職員の給金三ヶ月分未払いが生じた時、
それを立替えたのも下村でした。
また、昼間に働く商人たちのために、商家の2階に夜学を開いてもいます。
これら教育への功績から、明治7年6月に熊谷県から下村に賞状と銀杯が授与されています。
楫取県令赴任は明治9年ですから、すでに学校教育の下地は出来ていました。


ただ、これが直で「就学率」に直結したかというと簡単にはいかず。
当時、授業料は月に50銭ほどが全国的な中、
群馬は25銭平均だったらしいのですが(地域差あり)
それでも明治9年の時点で50パーセントほど。
この時期の全県データはないのですが、特に女子就学率は低かったようです。


これは全国的な問題ではありますが、特に群馬は主産業が生糸。
そして、その生糸でももっとも高品質なものが、
農家が「座繰り」で生産する家庭内工業によるものでした。
(実際、製糸工場で作られたものはそれより品質が落ちました。
ちなみに、花燃ゆ先週の放送のように、生糸商人の店で糸を紡ぐことはありません)
これの担い手が女性になります。
「かかあ天下と空っ風」とはよく言われますが、
これはよく働く妻などを「うちのかかあは天下一(の働き者)」と、
夫達が自慢したのが語源。
というわけで、学校なんかいっている暇はない!
・・・という訳にもいかないのでw


そこで、県は明治11年になって「荒業」に出ます。
おそらくこの時期としては、全国的にも例は少ないであろう、
「女子小学校」を開校させます。いや、少ないというかあるのか?


明治11年1月、県都に「前橋女児学校」を開学させます。
児童は当然全員女子です。
2年後には市内連雀町に、下村ら有志による寄付金で新校舎が建設されます。
なお、生徒数は明治11年で598人、12年で585人・・・ですので、
まずますの好スタートを切ったのですが・・・


ですが、明治16年に前橋に大火があり、
せっかくの新築校舎も全焼してしまいます。
その後、学校を2つに分けて存続を図りましたが、
小学校の総数が増えて来たこともあり生徒数も減じて、
明治20年には廃校となりました。
では、女子教育はどうなったのか?
続きます。



桃井学校(現桃井小学校)



智本光隆