青い花

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人間の性はなぜ奇妙に進化したのか

2017-05-22 07:13:04 | 日記
ジャレド・ダイアモンド著『人間の性はなぜ奇妙に進化したのか』

原題は“Why Is Sex Fun?”で、日本語初版のタイトルは直訳の『セックスはなぜ楽しいのか』。訳者の長谷川寿一氏のあとがきによると「文庫版では、女性や中高校生などにも手に取りやすく、本書全体の内容をより正確にあらわす『人間の性は何故奇妙に進化したのか』とした」とのこと。
確かに初版のタイトルでは手に取るのが恥ずかしい。この本を知った時には図書館で借りようと思ったのだが、あいにく地元の図書館には初版しか置いてなくて、カウンターに持っていく勇気が出なかった。仕方なく文庫版を購入した次第である。

著者のジャレド・ダイアモンドは、カリフォルニア大学ロサンゼルス校医学部生理学科の教授であると同時に、ニューギニアを舞台にした鳥類の研究で第一線の業績をあげてきた進化生態学者でもある。代表作は、『銃・病原菌・鉄』『文明崩壊』。
本著は、「二つの脳をもつ男」と呼ばれている著者が、人間の性について他の動物と比較しながら考察したものだ。

人間以外の多くの動物にとっては、自らの性行動を隠さないことの方が普通である。
例えば、ヒヒのメスは排卵周期に入ると、〈遠くからでも一目でわかるように膣の周りの皮膚を真っ赤に腫らせる〉、〈独特の臭いを発する〉、〈オスの前に歩み寄ってしゃがみ込んで局部を見せつける〉などで、自らが発情していることをアピールする。
これらの行動について違和感を覚える人は多いのではないだろうか?なんとも思わない人は、これらの行動を人間に当て嵌めてみて欲しい。どう感じるか?
そこまでしてパートナーを獲得したがる女性は少数派だろうし、そこまで明け透けに擦り寄られて喜ぶ男性もまた少数派であろう。端的に言うと、気味が悪い。はしたない。変態だと思う。110番か119番かへ通報するべきである。

しかし、自然界の大多数から見れば、人間の方こそ不気味であり、珍奇であり、変態的なのだ。
〈一夫一婦制〉、〈父親と母親がともに子育てをすること〉、〈他の夫婦とテリトリーを共有しあうこと〉、〈隠れてセックスすること〉、〈排卵が隠蔽されていること〉、〈女性が一定の年齢で閉経すること〉などは、殆ど人間にしか見ることが出来ない特異な行為である。
しかし、進化論的な観点から見れば、これらはすべて個体の生存や遺伝子の伝達を有利に行うための「選択」の結果なのだ。

本書では、人間の性の特異性について、以下の七つの章に分けて他の動物の事例と比較・考察している。

1 人間の奇妙な性生活
2 男と女の利害対立
3 なぜ男は授乳しないのか?
4 セックスはなぜ楽しいのか?
5 男はなんの役に立つのか?
6 少なく産めば、たくさん育つ
7 セックスアピールの真実

何れも俯瞰的に捉えると非常に興味深いが、恋愛だの結婚だのに真剣になるのが馬鹿馬鹿しくなる内容でもある。もっともシビアで滑稽なのは、“2 男と女の利害対立”だろうか。

“交尾をして卵の受精を完了したオスとメスは、つぎにとるべき行動についていくつかの「選択肢」に直面する。共に目の前の卵を置き去りにし、同じパートナー、もしくは新しいパートナーと交尾を行ない、新たな受精のための仕事にとりかかるべきだろうか。しかし、セックスを一休みして子育てを専念したほうが、この卵が生き残れる可能性を高められるかもしれない。後者を選んだ場合、オスとメスはさらに別の選択肢を迫られる。両親で子育てするのか、母親か父親のどちらか一方だけか、という問題だ。一方、親が居なくても卵が育つ可能性が一〇パーセントあり、親が子育てに参加するのと同じ時間で一〇〇〇個の受精卵を算出できるとしたら、親にとって最良の選択は、卵を置き去りにして自力に任せ、自分は新たな受精の仕事に向かうことだ。”(P32~33)

まるであらゆる動物が意識的に「選択肢」を比較検討して、自分の利益を最も増すであろう道を選んでいるかのような印象を受ける。しかし、当然のことながら個体ごとに「選択肢」を判断しているわけではない。行動学で「選択」と呼ばれるものの多くは、自然淘汰によってその種ごとの生理機能や身体構造にあらかじめプログラムされているのである。

“遺伝子を引き継いだ子孫の生存力を最も高めるような解剖学的構造と本能を規定する遺伝子は、しだいにその頻度を増すようになる。言い換えれば、生存力や繁殖力を高める解剖学的構造や本能は、自然淘汰によって定着していく(遺伝的にプログラムされていく)傾向がある。”(P35)

自然淘汰とは、種の利益を何らかの形で増すものであるだけではない。親子間の闘争でもあり、夫婦間の闘争でもあるのだ。何故なら、親と子の利益、あるいは父親と母親の利益は必ずしも一致しないからである。
とりわけ、異性間の闘争についていえば、自然淘汰は子孫を多く残すようにオス・メス双方に働くが、最適な戦略は双方で異なるかもしれない。ここに対立が生じる。

オスとメスが交尾して受精卵を作った後、どうするかという「選択」に迫られた場合につて考えてみる。
卵が自力で生き延びる可能性がそれなりに高い場合は簡単だ。
オスもメスも卵を置き去りにすることで利益は一致する。子育ての時間が要らない分、さらに多くの受精卵を作れるのである。
ところが、どちらかが世話をしないと子供が生きていけない場合には、子育てを巡ってオスとメスの間で駆け引きが生じる。
オスもメスも子育ては相手に押し付けて、自分は繁殖可能な新しいパートナーを見つけた方が遺伝的利益を増すためには良い。しかし、残されたパートナーが子育てを全うしてくれなかった場合、子供は死んでしまい、どちらとも遺伝的利益を増すゲームに負けたことになる。

ゲームに負けたくなければ、どちらかが引き下がらなければならない。
どちらが引き下がる場合が多いのか。その答えは、どちらが受精卵により多くの投資をしたかで決まる。オスもメスもこれを意識的に計算しているわけではない。彼らがとる行動は自然淘汰によって遺伝的に解剖学的構造や本能にプログラムされているのだ。
僅かしか投資しなかった側より、多大な投資をした側の方が途中で投げ出しにくい。人間においては、何処の国でも母親が引き下がり、子育てを引き受けることが多いのはこのためである。

人間の場合、卵が受精する瞬間においてさえ、母親の方が多くの投資をしている。
ヒトの成熟した卵子1個の重量は、精子の約100万個分に相当する。
卵子にも精子にも染色体が含まれているが、卵子にはさらに栄養分と代謝機能が備わっており、少なくとも胚が自力で栄養分を摂取できる段階までの間は、それを使って胚の発生を手助けする。それに対して、精子に必要なのは鞭毛を使って数日間泳ぎ回るのに必要なエネルギーだけである。

そして、人間の授精は体内受精である。
体内受精の場合、母親は卵子を作って受精させるまでに要した投資に加えて、そのあと胚にもさらに投資しなくてはならない。体内の栄養分を使って胚を成長させるのである。

また、栄養分だけでなく、妊娠に要する時間も投資しなくてはならない。
母親が妊娠九ヶ月までに費やす時間と労力は莫大なものだが、父親が1ミリリットルの生死を放出するのに費やす投資はちっぽけなものだ。
母親は、妊娠中は他に子供を作ることが出来ない。加えて、哺乳動物となると母親が拘束される時間はさらに長く、授乳期間にまで及ぶ。
これに対して、父親の方は妻の体内に放精した直後でも、別の女性に放精することが出来るので、さらに多く遺伝子を残すことが出来る。
男性が妊娠と同時に女性を捨て、別の女性を求めることの進化的ロジックはここにある。逆に言えば、子育てを引き受けた男性は、別の繁殖機会をいくつものがしていることになる。

投資の大きさの差異、子育てによって失う繁殖機会の差に加えて、親であることの確からしさの差(遺伝子検査でも受けない限り、男性は妻が生んだ子が自分の実子であるか確認する術を持たない)から、男性は女性より子供や配偶者を捨てやすい傾向がある。
大して投資していないから捨てるのがさほど惜しくない。今の妻の子にこだわるより、次々に新たなパートナーを得て繁殖の機会を増やす方が効率的だ。大体、妻の産んだ子が自分の子とは限らないし…。こう書くと、クズ男の「選択」を肯定しているみたいで萎える。倫理と効率的な繁殖は両立が難しいらしい。

さらに非倫理的な「選択」になるが、男性は既婚女性と浮気することで、子の数をより確実に増やすことが出来る。
男性が遺伝的成功を最大化できる方法は、既婚女性と婚外性交し、相手の夫に他人の子とは悟られずに生まれた子供を育てさせることだ。遺伝子を多く残すためには、繁殖の機会を増やすだけでは片手落ちである。捨てていく女性がしっかり子育てして遺伝子の生存を助けくれなかった場合、この性交は無駄撃ちになってしまうのだ。より確実に遺伝子を残すためには、彼女に加えて彼女の夫にもうまく子育てを押し付けるのが良い。すべては、自然淘汰によって定着した遺伝的プログラムの成せる業である。不倫は文化ではなく本能だったのだ。
逆に夫に不満な女性が、現在の夫よりも財力があったり、良い遺伝子を持つ男性との再婚や婚外関係を求めたりするのもまた、自然淘汰による「選択」の結果だ。

我々が親子愛だの恋愛だのと美化している感情が、繁殖戦略のための「選択」から生まれたものだとすれば、切ないのを通り越して可笑しくなってしまう。愛しているだとか好きだとかなんて、所詮は気持ち良く子孫を生み増やしていくために遺伝子にプログラムされた感情に過ぎないのだろうか。
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