『楽園の瑕 終極版』(2008年香港)は、『楽園の瑕』(1994年)の別編集バージョン。監督はウォン・カーウァイ。
金庸の『射鵰英雄伝』に登場する“東邪”黄薬師と“西毒”欧陽鋒の前日譚という位置づけだが、ストーリーはウォン・カーウァイ監督のオリジナルである。
欧陽鋒…レスリー・チャン
黄薬師…レオン・カーフェイ
洪七…ジャッキー・チュン
盲目の剣士…トニー・レオン
慕容燕/慕容嫣…ブリジット・リン
欧陽鋒の兄嫁…マギー・チャン
洪七の妻…バイ・リー
桃花…カリーナ・ラウ
“人に拒絶されないためには、先に拒絶することだ”
南宋末期。
欧陽鋒は西域の砂漠で殺し屋の斡旋業を営んでいた。毎年必ず啓蟄になると東から旧友の黄薬師が尋ねて来る。理由はわからない。
その年の啓蟄。
黄はある女に貰ったと言って、“酔生夢死”という酒を持参した。その酒を飲むと過去を忘れることが出来るのだ。「思い出にこそ悩みの元がある」と黄は言う。その酒を、欧は飲まなかったが、黄は飲み、過去を一つずつ忘れていった。
翌朝、黄は去って行った。それ以来、欧を尋ねることはなかった。
一ヶ月後、黄はある山に向かった。
そこは親友の故郷だった。親友が結婚したばかりの頃、黄は一ヶ月ほど滞在したことがあったのだ。親友はある日突然失踪した。
水辺で馬の体を洗っていた女が、黄の顔を見て泣いた。
酒場に入った黄は、同じ卓についた男の顔に見覚えがあった。
「前に会ったな」と訊ねる黄に、男は「とぼけるな。最高の友だった。だが今は違う」と答えた。「ここで何を?」と聞き返してきた男に、黄は“酔生夢死”の話をした。話が終わると男が立ち去ろうとした。「また会えるか?」という黄の問いに、男は背を向けたまま「いや」と答えた。
男は、黄を殺すつもりでいたのだ。だが出来なかった。眼が見えなくなっていたからだ。
黄は酒場で美しい剣士に切りつけられる。黄はその剣士のことも忘れていたのだ。
黄は燕国を訪れた際、美しい剣士・慕容燕と出会い、親しくなった。
ある夜、黄は酔った勢いで慕容燕の頬に触れ、「君に妹がいるなら、妻に迎える」と、戯言を吐く。そして、妹がいると言う燕と、妹を貰い受ける日時を約束して別れた。
燕は男性ではなく、男として生きることを強いられた女性だった。
約束の日、燕は妹の嫣として美しく着飾り、木に鳥籠をぶら下げて黄を待ったが、黄は現れなかった。燕/嫣は、黄を激しく憎んだ。
立春の後。
彼女は、燕として男装で欧の元を訪れ、「出来るだけ残酷に」と黄の暗殺を依頼する。ところが、その直後に、嫣として女装で欧を尋ね、燕の暗殺を依頼するのだった。
不審に思った欧は、燕と嫣が同一人物であることに気が付き、燕/嫣に黄が残した“酔生夢死”を飲ませた。酔った燕/嫣は、欧と黄の区別が付かなくなり、黄への思慕を吐露する。燕/嫣は、黄が彼女を女と知りながら、守る気の無い約束をしたことを知っていたのだ。それに対する返答のように欧は、今は兄嫁となったかつての恋人に言えなかった言葉を、燕/嫣に向かって告げる。
その夜、寝床に横たわる欧の身体に何者かの手が触れた。欧は、その手が燕/嫣なのかかつての恋人なのか、分からないまま身を委ねた。
その日から燕/嫣は姿を消した。
燕/嫣は、江湖で修業を積み、数年後、“独孤求敗”という呼び名で知られるようになった。
欧の家を一人の娘が訪れた。
一頭のラバを曳き、卵の入った籠を抱えた彼女は、馬賊に殺された弟の敵を討って欲しいという。だが欧は、依頼をするならラバではなく金をよこせと突っぱねた。娘はそのまま欧の家のそばに佇む。
欧の元に、眼の悪い剣士が現れ、仕事の斡旋を乞うてきた。
剣士は「自分は30歳になると完全に失明する運命にある。その前に故郷・桃花島の桃の花が見たくなったので旅費を稼ぎたい」と言う。
数か月前に村人に雇われた黄が闘った馬賊の残党が、近々復讐に来るだろう。欧はその始末を剣士に斡旋することにした。
剣士は、弟の仇を討ってほしいと縋る娘を無視した。
「娘を見ると、故郷に残した妻を思い出す」という。「愛しているのになぜ流離う?」という欧の問いに対し、剣士は「(妻は)親友を愛したんだ」と答えた。
桃の花が散ってしまうと剣士は焦るが、馬賊がいつ襲撃するのかはわからない。
剣士は毎晩提灯をともし、馬賊を待ち構えていた。だが、彼が既に視力を失っていることに、欧は気づいていた。
馬賊が襲撃してきた。
多勢に無勢の中、盲目の剣士は健闘したが、馬賊の中に彼よりも素早い剣捌きの者がいた。喉を切られた彼は、青空を仰ぎ、そよ風のような己の血飛沫の音を聞きながらこと切れた。
白露。
洪七という裸足の男が、仕事を貰いに欧の元を訪れる。
野心に燃える彼に、欧は砂漠に転がる盲目の剣士の干乾びた遺骸を見せ、首についた傷から敵の太刀筋を教える。
やがて一人の女が洪七を探して欧の家を訪ねてきた。
彼女は洪七が故郷に置いて来た妻だった。江湖の掟では、武侠は女連れで流離うことは出来ないのだ。
洪七は、弟の仇を討ってほしいという娘の依頼を、卵一個と引き換えに請け負った。
彼は敵を全滅させながらも、一瞬の躊躇いで指を一本斬り落とされ、その傷がもとで高熱を出してしまう。狼狽える娘に、彼は「俺は卵が欲しかったのだ。貸し借りは無い。だから、馬鹿な真似をするな」と語った。以後、欧の家の前から娘の姿は消えた。
病の癒えた洪七は「九本指の英雄になる」と宣言し、江湖の掟を破って、妻を連れて北に旅立った。欧は二人が妬ましかった。
三年後、洪七は蛮族の首領“北丐”となり、大雪山で欧と対決し、両者絶命することになる。
欧にとっての、辛いけれど忘れたくない記憶。
彼が修行の旅から故郷の白駝山に戻ってみると、彼の恋人と彼の兄との婚礼が決まっていた。婚礼の前夜、欧は駆け落ちを持ち掛けたが、彼女は拒んだ。欧は失意のうちに一人故郷を離れた。
翌春。
欧が桃花島を訪れる。
盲目の剣士の妻は、欧が持っていた手ぬぐいを見て、夫の死を悟り、涙を流した。
桃花島には、桃の木は一本もなかった。桃花とは、剣士の妻の名前だったのだ。桃花の泣き声を聞いているうちに、欧は黄がなぜ毎年啓蟄に訪ねてきたのかが分かった。
欧の兄嫁は、息子を一人産んだ。
一人息子を見つめる時、彼女が誰のことを考えているのかを、黄は知っている。
黄は、兄嫁から、年に一度、啓蟄の日に欧を訪ねて彼の様子を教えて欲しいとの依頼を受けていた。「なぜ欧と結婚しなかった?」という黄の問いに対し、兄嫁は「愛していると言ってくれなかったから」と答えた。それから、「愛の勝者になったと思っていた。けれども、ある日鏡を見たら、そこには敗者がいたの」とも。彼女に惹かれていた黄だったが、過去ばかりを見つめている彼女には、自分が付け入る隙など無いことを悟る。
そんな黄に、兄嫁は「あなたは彼の友人なのに、なぜ私のことを黙っているの」と問う。それに対し黄は「あなたに教えるなと言われたから」と答えた。兄嫁は「あなたは誠実な人なのね」と泣き崩れた。そして、「彼に渡して」と、黄に“酔生夢死”を託したのだった。
それから程なくして、兄嫁は死んだ。
“酔生夢死”を、欧は飲まなかったが、黄は飲んだ。そして、桃の花以外のすべてを忘れた。
六年後、黄は桃花島に隠遁し、“東邪”と称した。
兄嫁の死から二年後の啓蟄。
欧は、訪れることの無くなった黄を待ち続けていた。白駝山から届いた手紙で、欧は二年前に兄嫁が病死したことを知った。欧はついに “酔生夢死”を飲んだ。しかし、どういう訳か何一つ忘れることができなかった。
その晩から、欧は同じ夢を見るようになった。
翌年、彼は砂漠の家を焼き払い、故郷に戻る。白駝山に戻った欧は 、“西毒”と呼ばれることになる。
忘却とは、最も峻烈な拒絶なのかもしれない。
本作は、『射鵰英雄伝』に登場する人物を扱っているが、武侠の要素を求めるとガッカリすることになるので、映像美・幻想美を楽しむ作品だと割り切るべきだろう。
本作に限らず、カーウァイ監督の作品は、ストーリーではなく、フラグメントを楽しむものだと、私は思っている。黄色く乾いた砂塵、紺碧の空を流れる白い雲、水浴びをする馬と女、湖面に映る男装の女剣士、日を浴びて咲き誇る桃の花、影をちらつかせながら回る鳥籠、砂漠に朽ちていく遺体、哀愁たっぷりの伝統音楽…一つ一つは陳腐なのに、組み合わせ方で詩情たっぷりに見せるのが上手い監督だ。上っ面ばかりで中身が無いと言われるカーウァイ作品だけど、別にそれでいいのでは?人生について鼻息荒く語られるとこそばゆい気持ちになってしまう私には、丁度良い軽やかさである。
愛に勝敗があるとしたら、本作の登場人物は洪七夫妻以外皆敗者だ。
“酔生夢死”が欧に何も忘れされてくれなかったのは本当か?一人で生きる欧に記憶の確認をする相手などいないのに、なぜ何も忘れていないと断言できるのか?彼が過去の記憶だと思っているものが、ただの夢ではないと、なぜ言い切れるのか?また、黄や燕の中に残った記憶の欠片は、何処までが本物なのか?
何が現実で何が幻想なのか分からないまま、すべてが時間と砂塵に埋もれていく。それぞれの人物が主観と憶測で語るのみで、他の人物と理解し合おうとはしない。彼らは一瞬だけ関わり合いになるが、親密度が深まらないまま別れていく。孤独に沈んでいるが、特に悲壮感はない。ハッピーエンドには程遠いのに、後味は悪くない不思議な作品だった。
金庸の『射鵰英雄伝』に登場する“東邪”黄薬師と“西毒”欧陽鋒の前日譚という位置づけだが、ストーリーはウォン・カーウァイ監督のオリジナルである。
欧陽鋒…レスリー・チャン
黄薬師…レオン・カーフェイ
洪七…ジャッキー・チュン
盲目の剣士…トニー・レオン
慕容燕/慕容嫣…ブリジット・リン
欧陽鋒の兄嫁…マギー・チャン
洪七の妻…バイ・リー
桃花…カリーナ・ラウ
“人に拒絶されないためには、先に拒絶することだ”
南宋末期。
欧陽鋒は西域の砂漠で殺し屋の斡旋業を営んでいた。毎年必ず啓蟄になると東から旧友の黄薬師が尋ねて来る。理由はわからない。
その年の啓蟄。
黄はある女に貰ったと言って、“酔生夢死”という酒を持参した。その酒を飲むと過去を忘れることが出来るのだ。「思い出にこそ悩みの元がある」と黄は言う。その酒を、欧は飲まなかったが、黄は飲み、過去を一つずつ忘れていった。
翌朝、黄は去って行った。それ以来、欧を尋ねることはなかった。
一ヶ月後、黄はある山に向かった。
そこは親友の故郷だった。親友が結婚したばかりの頃、黄は一ヶ月ほど滞在したことがあったのだ。親友はある日突然失踪した。
水辺で馬の体を洗っていた女が、黄の顔を見て泣いた。
酒場に入った黄は、同じ卓についた男の顔に見覚えがあった。
「前に会ったな」と訊ねる黄に、男は「とぼけるな。最高の友だった。だが今は違う」と答えた。「ここで何を?」と聞き返してきた男に、黄は“酔生夢死”の話をした。話が終わると男が立ち去ろうとした。「また会えるか?」という黄の問いに、男は背を向けたまま「いや」と答えた。
男は、黄を殺すつもりでいたのだ。だが出来なかった。眼が見えなくなっていたからだ。
黄は酒場で美しい剣士に切りつけられる。黄はその剣士のことも忘れていたのだ。
黄は燕国を訪れた際、美しい剣士・慕容燕と出会い、親しくなった。
ある夜、黄は酔った勢いで慕容燕の頬に触れ、「君に妹がいるなら、妻に迎える」と、戯言を吐く。そして、妹がいると言う燕と、妹を貰い受ける日時を約束して別れた。
燕は男性ではなく、男として生きることを強いられた女性だった。
約束の日、燕は妹の嫣として美しく着飾り、木に鳥籠をぶら下げて黄を待ったが、黄は現れなかった。燕/嫣は、黄を激しく憎んだ。
立春の後。
彼女は、燕として男装で欧の元を訪れ、「出来るだけ残酷に」と黄の暗殺を依頼する。ところが、その直後に、嫣として女装で欧を尋ね、燕の暗殺を依頼するのだった。
不審に思った欧は、燕と嫣が同一人物であることに気が付き、燕/嫣に黄が残した“酔生夢死”を飲ませた。酔った燕/嫣は、欧と黄の区別が付かなくなり、黄への思慕を吐露する。燕/嫣は、黄が彼女を女と知りながら、守る気の無い約束をしたことを知っていたのだ。それに対する返答のように欧は、今は兄嫁となったかつての恋人に言えなかった言葉を、燕/嫣に向かって告げる。
その夜、寝床に横たわる欧の身体に何者かの手が触れた。欧は、その手が燕/嫣なのかかつての恋人なのか、分からないまま身を委ねた。
その日から燕/嫣は姿を消した。
燕/嫣は、江湖で修業を積み、数年後、“独孤求敗”という呼び名で知られるようになった。
欧の家を一人の娘が訪れた。
一頭のラバを曳き、卵の入った籠を抱えた彼女は、馬賊に殺された弟の敵を討って欲しいという。だが欧は、依頼をするならラバではなく金をよこせと突っぱねた。娘はそのまま欧の家のそばに佇む。
欧の元に、眼の悪い剣士が現れ、仕事の斡旋を乞うてきた。
剣士は「自分は30歳になると完全に失明する運命にある。その前に故郷・桃花島の桃の花が見たくなったので旅費を稼ぎたい」と言う。
数か月前に村人に雇われた黄が闘った馬賊の残党が、近々復讐に来るだろう。欧はその始末を剣士に斡旋することにした。
剣士は、弟の仇を討ってほしいと縋る娘を無視した。
「娘を見ると、故郷に残した妻を思い出す」という。「愛しているのになぜ流離う?」という欧の問いに対し、剣士は「(妻は)親友を愛したんだ」と答えた。
桃の花が散ってしまうと剣士は焦るが、馬賊がいつ襲撃するのかはわからない。
剣士は毎晩提灯をともし、馬賊を待ち構えていた。だが、彼が既に視力を失っていることに、欧は気づいていた。
馬賊が襲撃してきた。
多勢に無勢の中、盲目の剣士は健闘したが、馬賊の中に彼よりも素早い剣捌きの者がいた。喉を切られた彼は、青空を仰ぎ、そよ風のような己の血飛沫の音を聞きながらこと切れた。
白露。
洪七という裸足の男が、仕事を貰いに欧の元を訪れる。
野心に燃える彼に、欧は砂漠に転がる盲目の剣士の干乾びた遺骸を見せ、首についた傷から敵の太刀筋を教える。
やがて一人の女が洪七を探して欧の家を訪ねてきた。
彼女は洪七が故郷に置いて来た妻だった。江湖の掟では、武侠は女連れで流離うことは出来ないのだ。
洪七は、弟の仇を討ってほしいという娘の依頼を、卵一個と引き換えに請け負った。
彼は敵を全滅させながらも、一瞬の躊躇いで指を一本斬り落とされ、その傷がもとで高熱を出してしまう。狼狽える娘に、彼は「俺は卵が欲しかったのだ。貸し借りは無い。だから、馬鹿な真似をするな」と語った。以後、欧の家の前から娘の姿は消えた。
病の癒えた洪七は「九本指の英雄になる」と宣言し、江湖の掟を破って、妻を連れて北に旅立った。欧は二人が妬ましかった。
三年後、洪七は蛮族の首領“北丐”となり、大雪山で欧と対決し、両者絶命することになる。
欧にとっての、辛いけれど忘れたくない記憶。
彼が修行の旅から故郷の白駝山に戻ってみると、彼の恋人と彼の兄との婚礼が決まっていた。婚礼の前夜、欧は駆け落ちを持ち掛けたが、彼女は拒んだ。欧は失意のうちに一人故郷を離れた。
翌春。
欧が桃花島を訪れる。
盲目の剣士の妻は、欧が持っていた手ぬぐいを見て、夫の死を悟り、涙を流した。
桃花島には、桃の木は一本もなかった。桃花とは、剣士の妻の名前だったのだ。桃花の泣き声を聞いているうちに、欧は黄がなぜ毎年啓蟄に訪ねてきたのかが分かった。
欧の兄嫁は、息子を一人産んだ。
一人息子を見つめる時、彼女が誰のことを考えているのかを、黄は知っている。
黄は、兄嫁から、年に一度、啓蟄の日に欧を訪ねて彼の様子を教えて欲しいとの依頼を受けていた。「なぜ欧と結婚しなかった?」という黄の問いに対し、兄嫁は「愛していると言ってくれなかったから」と答えた。それから、「愛の勝者になったと思っていた。けれども、ある日鏡を見たら、そこには敗者がいたの」とも。彼女に惹かれていた黄だったが、過去ばかりを見つめている彼女には、自分が付け入る隙など無いことを悟る。
そんな黄に、兄嫁は「あなたは彼の友人なのに、なぜ私のことを黙っているの」と問う。それに対し黄は「あなたに教えるなと言われたから」と答えた。兄嫁は「あなたは誠実な人なのね」と泣き崩れた。そして、「彼に渡して」と、黄に“酔生夢死”を託したのだった。
それから程なくして、兄嫁は死んだ。
“酔生夢死”を、欧は飲まなかったが、黄は飲んだ。そして、桃の花以外のすべてを忘れた。
六年後、黄は桃花島に隠遁し、“東邪”と称した。
兄嫁の死から二年後の啓蟄。
欧は、訪れることの無くなった黄を待ち続けていた。白駝山から届いた手紙で、欧は二年前に兄嫁が病死したことを知った。欧はついに “酔生夢死”を飲んだ。しかし、どういう訳か何一つ忘れることができなかった。
その晩から、欧は同じ夢を見るようになった。
翌年、彼は砂漠の家を焼き払い、故郷に戻る。白駝山に戻った欧は 、“西毒”と呼ばれることになる。
忘却とは、最も峻烈な拒絶なのかもしれない。
本作は、『射鵰英雄伝』に登場する人物を扱っているが、武侠の要素を求めるとガッカリすることになるので、映像美・幻想美を楽しむ作品だと割り切るべきだろう。
本作に限らず、カーウァイ監督の作品は、ストーリーではなく、フラグメントを楽しむものだと、私は思っている。黄色く乾いた砂塵、紺碧の空を流れる白い雲、水浴びをする馬と女、湖面に映る男装の女剣士、日を浴びて咲き誇る桃の花、影をちらつかせながら回る鳥籠、砂漠に朽ちていく遺体、哀愁たっぷりの伝統音楽…一つ一つは陳腐なのに、組み合わせ方で詩情たっぷりに見せるのが上手い監督だ。上っ面ばかりで中身が無いと言われるカーウァイ作品だけど、別にそれでいいのでは?人生について鼻息荒く語られるとこそばゆい気持ちになってしまう私には、丁度良い軽やかさである。
愛に勝敗があるとしたら、本作の登場人物は洪七夫妻以外皆敗者だ。
“酔生夢死”が欧に何も忘れされてくれなかったのは本当か?一人で生きる欧に記憶の確認をする相手などいないのに、なぜ何も忘れていないと断言できるのか?彼が過去の記憶だと思っているものが、ただの夢ではないと、なぜ言い切れるのか?また、黄や燕の中に残った記憶の欠片は、何処までが本物なのか?
何が現実で何が幻想なのか分からないまま、すべてが時間と砂塵に埋もれていく。それぞれの人物が主観と憶測で語るのみで、他の人物と理解し合おうとはしない。彼らは一瞬だけ関わり合いになるが、親密度が深まらないまま別れていく。孤独に沈んでいるが、特に悲壮感はない。ハッピーエンドには程遠いのに、後味は悪くない不思議な作品だった。