青い花

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作家と楽しむ古典

2018-03-15 07:03:33 | 日記
『作家と楽しむ古典 古事記 日本霊異記・発心集 竹取物語 宇治拾遺物語 百人一首』は、『池澤夏樹=個人編集 日本文学全集 全30巻』の刊行を機に開催された連続講義を書籍化したものだ。
新訳を手掛けた作家たちが古典作品と新訳について、魅力や苦労話などを語っている。作家の語りだけでなく、それぞれの古典の短い解説も載っているので、大人になってからまったく古典に触れていない読者でも安心して読むことが出来る。

【古事記】を池澤夏樹、【日本霊異記・発心集】を伊藤比呂美、【竹取物語】を森見登美彦、【宇治拾遺物語】を町田康、【百人一首】を小池昌代が担当。

巻末に載っている『池澤夏樹=個人編集 日本文学全集 全30巻』のラインナップを見ると、訳者は若手・中堅クラスの作家が殆どで、大御所クラスは池澤夏樹氏自身くらいだ(丸山才一、福永武彦、折口信夫らは故人であり、彼らの訳は本シリーズのための新訳では無いので省いておく)。これは、池澤夏樹氏の敢えての選択だろう。

“何年か前、「日本文学全集」を作ろうと思い立った。
普通に考えつくことではないが、その頃は東日本大震災の後で、この災害の多い列島でずっと暮らしてきた日本人という人々について知りたいという思いが強かった。“

日本人がどのような変遷を辿って今のようになったのか。
それを探る手掛かりは、歴史学、文化人類学、地政学などいくつもあるが、作家である池澤氏は文学に拠るのが良いと考えた。
文学史の起点から現代まで選んだ作品を連ねて、日本人の精神の歩みを辿る。明治以前は現代とは言葉が違うので、不慣れな読者のために現代語訳が必要だ。「日本文学全集」では、1巻の「古事記」から13巻の「たけくらべ」がそれにあたる。
作品と訳者のマッチングを考える。自分の文体の持ち主で、現役の作家や詩人。教科書的な言葉ではなく生きた言葉で、従来の訳に囚われず、それでいて外し過ぎずに訳せる人を選ぶ。そうなると、訳者の年齢層は若くなる。

話が横道にそれるが、池澤氏が長編『双頭の船』を書いた理由も「日本文学全集」を作った理由と同じだろう。神話的に広がる世界の中に被災地再生の祈りと日本人という人々への信頼が込められた力作だ。

『作家と楽しむ古典』は、訳者のうちの五人による「連続古典講義」を文章に起こしたもので、トップバッターは池澤夏樹「古事記 日本文学の特徴のすべてがここにある」だ。

『古事記』は日本で最初の文学であるが、ゼロから生まれたわけでは無い。では、何の影響を受けて誕生したのか。
先行する作品としては、天皇の命によって、聖徳太子と蘇我馬子が編集した『天皇記』と『国記』がある。それらには、土地の歴史や、豪族たちの系譜、神話や伝説などが書かれていた。
ところが、それらの原本は、蘇我氏の滅亡と共に焼失してしまった。
しかし、各豪族の家々には、「帝紀」や「旧辞」と呼ばれる『天皇記』や『国記』に類する文書が残っていたので、天武天皇は、それらの資料を集め、誤りを正し、新しい書物を作るように命じた。この勅命を受けたのが太安万侶である。
『古事記』は、稗田阿礼の語りを太安万侶が書き留めたものとされているが、実際は太安万侶一人で編纂したのではない。太安万侶はチーム名のようなものだ。おそらくは、当時の文化官僚たちの集団であろう。

支配者が権威付けのために、世界がどのように生まれ、国がどのように出来たかの物語を編纂することは珍しい事ではない。
例えば、司馬遷の『史記』は中国政府が正式に認めた最初の正史で、紀元前百年ごろに書かれた。『史記』は、各王朝の帝王の業績を記述した「本記」、地方の豪族らの業績を記述した「世家」、目立って活躍した個人についての伝記「列伝」、天文、地理、学術、制度、等の概説「書」、年表の「表」の五つのパートに分かれている。

『古事記』にも政治的な意図はある。が、それだけに留まらない文学的な価値もある。
『古事記』の特筆すべき点は、神の血縁としての天皇家、天皇家の親戚としての各豪族という系譜のシステムを構築する一方で、歌謡をふんだんに取り入れていることだ。これは他国の歴史書には見られない『古事記』独自の遊びのセンスだ。それらの歌謡は、『古事記』のために新しく創作されたものばかりではない。人々の間に流布していた民謡を物語に合わせたはめ込んだものが多いと思われる。『古事記』の編纂者たちは、権威づけのための歴史書の中に、歌謡という文学的な喜びを織り込んだ。それを、支配者である天皇もよしとした。
歴史、神話、伝説、系譜、これらを素材として集めて構成する。そこに、歌謡を取り入れる。池澤氏の知る限り、歌謡や詩が取り入れられた歴史書は、他国には殆ど無いのだそうだ。
また、池澤氏は「日本文学全集」を作るにあたって、太安万侶の編集的センスを大いに意識したようだ。『古事記』は、日本文学アンソロジーの基礎でもあるのだ。

『古事記』は、神話としても高い独自性を持っている。
池澤氏は、中国の神話、ヒンドゥー教の神話、ギリシア神話、ポリネシア神話の天地開闢と『古事記』のそれとを比べ、『古事記』にのみ見られる特色をあげている。それは、セックスだ。天地創造の段階からセックスが関わっている神話はほかにない。セックスから生み出すという考え方は、日本人独特のものらしい。
日本人のセックスの捉え方については、伊藤比呂美「日本霊異記・発心集 日本の文学はすべて仏教文学」でも語られている。森見登美彦「竹取物語 僕が描いたような物語」のアホな男たちの恋物語も、町田康「宇治拾遺物語 みんなで訳そう宇治拾遺」に見られる日本の様々な階層のユーモラスな生態も、小池昌代「百人一首 現代に生きる和歌」の日本人ならではの恋愛観、自然観、死生観も、みな『古事記』に連なる感性だ。
セックスを肯定的に捉えること。武勲の話よりも色恋のゴシップを好むこと。弱者や滅びゆく者への共感。日本人の心性はすべて『古事記』に描かれている。やまとごころ、もののあわれ、無常観、日本文学の特徴とされるものは、すべて『古事記』に見つけることが出来る。

日本人の心の原点ともいえる『古事記』であるが、思想教育のためにその心性を曲げられていた時代もあった。
池澤氏は『古事記』に取り組んでいると、年配の方から「あんな天皇礼賛の本を、池澤さんが手掛けるんですか」と、否定的な発言を受けることが時々あったそうだ。
戦前から戦中にかけて、日本の為政者たちは、天皇礼賛と国民の戦意高揚のために、『古事記』を利用していたのだ。その時代を経験している年配の方々の中に、『古事記』アレルギーが見られるのはそのためだ。
恋愛とか、セックスとか、人情とか、日本人が大好きな要素がいっぱいの『古事記』なのに、軍国主義の教本に使われていたなんて。そのために『古事記』と聞くと、当時の辛い記憶を抉られる人たちがいるなんて。
『古事記』が武勲譚に割いている項は他国の歴史書と比べるととても少ないし、そもそも日本人は、英雄が勢いよく敵を滅ぼす話より、ヤマトタケルの悲劇の方が好きな民族だ。『平家物語』だって滅びゆく者たちの物語ではないか。
明治より古い時代には、我が国の天皇は恋の歌を詠み継ぎ、弱者に心を寄せる文化の王だった。和歌のテーマはだいたい恋で、軍記を読めば勝者に拍手するより敗者に涙を注ぐ。それが日本人の主流だ。戦前戦中の一時、為政者によって『古事記』が曲げて捉えられたり、戦争礼賛の文学が量産されたりしても、結局は根付かずに元のやまとごころ、もののあわれに還っていく。たいしたものだ。

『池澤夏樹=個人編集 日本文学全集』は30巻もある。
好きな訳者ばかりではない。さて、何処から手を付けよう?本書の五人の訳書から入って、それから、好きな作家の手掛けた巻とか、作品と訳者の組み合わせが面白い巻とか。そうやって少しずつ読了していけば、いつの間にか全巻読み終えているかもしれない。
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