青い花

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動物翻訳家

2018-03-30 07:41:23 | 日記
片野ゆか著『動物翻訳家』

ソロモンの指輪的なファンタジーを想像させるタイトルだが、中身は国内の四か所の動物園の飼育員に焦点を当てたリアルストーリーである。
片野ゆかは、これまでペット動物、主に犬と人間に関わることをテーマに活動してきたノンフィクション作家である。その片野が犬の行動学や動物福祉について調べている時に辿り着いたのが、〈環境エンリッチメント〉という言葉だった。

〈環境エンリッチメント〉は動物園の飼育現場で使われている言葉で、動物園の飼育環境を充実させて動物たちの精神的・身体的な健康を向上させる取り組みのことを指す。
動物が受ける苦痛を出来るだけ軽減して、心身ともに健全な生活が出来るようにすることを動物福祉と呼ぶ。〈環境エンリッチメント〉は、動物福祉の立場から飼育動物たちの幸福な暮らしを実現するための具体的な方策のことである。

限られた飼育空間で長時間過ごす動物たちの生活はあまりに単調だ。
それが動物たちの抱えるストレスの大きな要因となり、繁殖行動が出来ない、正常に発育しない、喧嘩が多く執拗な攻撃を繰り返す、常同行動が出やすいなど、動物園で飼育される動物特有の問題行動に繋がっている。

かつて動物園は、この国で絶大な人気スポットの一つだった。
しかし、動物を檻に入れて並べるという昔ながらの展示スタイルが続いてきたことで、施設としての魅力が大幅にダウンしてしまった。折角動物園に足を運んでも、動物たちは退屈そうにボーっとしているか、ストレスから不穏な行動を繰り返すばかり。とうてい幸せそうには見えない。そんな彼らの姿は来園者にマイナスの印象を与えた。
一方で、各地に新種のレジャー施設がオープンするなど、世の中の多様化が進み、全国の動物園の来園者は減少の一途をたどった。来園者が減れば予算も減る。予算が不足すれば飼育施設や展示スペースのメンテナンス、新設などは難しくなる。老朽化が進めば一層客足が遠のく。そんな悪循環に陥ってしまったのだ。

このような危機的状況の中、関係者の間では動物園の存在意義について議論が繰り返された。動物園の役割とは何なのか?何を発信していくべきなのか?そもそも動物園に何が出来るのか?このままでは動物園は不要のものになり、世間から忘れ去られてしまう。海外の情報を集めてみても、スペースや予算の異なる日本では、そのまま取り入れることは出来ない。
それでも注目すべきものはあった。それが〈環境エンリッチメント〉という概念である。
以前から飼育員たちにとっては、自分が担当する動物が少しでも快適に過ごせるように創意工夫することは、当たり前のことだった。でも、今までは動物たちを幸せにする創意工夫について、特定の呼び名がなかった。それが決まることによって、日本の動物園は大きく変わった。多くの人が共通認識を持てるようになったことで、職場の内外で意義のある仕事として評価されるようになったのだ。

〈環境エンリッチメント〉の良い所は、たとえスペースや予算が限られていても、その中で実践できることが必ずある点だ。本来の行動や生態、個体の好みなどに合わせて創意工夫を重ねることで、動物たちは目に見えて変わっていった。活き活きとした表情やダイナミックな行動、ユーモラスな仕草を見せ始めたのだ。ストレスから解放されたことで健康的になり、不穏な行動が減り、繁殖・育児に関する問題の解決にも繋がっていった。それにより客足が回復し、動物園ブームが巻き起こった。今から十年ほど前のことだ。

ブームの火付け役は、北海道旭川市の旭山動物園。
動物たちの行動生態を理解した施設を新設し、動物が自ら活発に動く姿を来園者に披露することで、多くの人の心をつかんだのだ。これは〈環境エンリッチメント〉を基盤にした“行動展示”というスタイルで、再建を目指す全国の動物園に多大な影響を与えた。
しかし、施設のデザインや展示方法を真似るだけでは、魅力的な動物園は作れない。最も大切なのは、現場で働く人々の仕事力。成功した動物園のすべては、この力に支えられていると言っても過言ではない。
動物たちが幸福を感じる環境を作るためには、彼らの気持ちや本音を理解しなければならない。人間が使える限りの能力と感覚を総動員して言葉を話せない動物たちに寄り添うのだ。さらに、動物の気持ちを反映した施設を実現させるためには、組織の中で多くの人間を説得する必要がある。運営や経営に関わる問題をクリアすることも大事で、そこを訪れる来園者の満足に繋がることも外せない。魅力的な動物園を作ることは、動物の世界と人間の世界を繋ぐ翻訳作業と云えるのだ。

本書で取り上げられた四か所の動物園は、NPO法人市民ZOOネットワークが2002年から毎年実施している「エンリッチメント大賞」で高く評価された〈環境エンリッチメント〉の成功例である。全国の動物園がこれらの動物園に続くことが期待される。
埼玉県こども動物自然公園のペンギン。日立市かみね動物園のチンパンジー。秋吉台自然動物公園サファリランドのアフリカハゲコウ。京都市動物園のキリン。何れも飼育員たちが自分の担当する動物を注意深く観察・研究し、忍耐強く試行錯誤して動物の持つ魅力を最大限に引き出した好例であり、多くの日本人がそれらの動物に抱いている固定概念を覆したパイオニアでもある。

四ヵ所ともいつか足を運んでみたい魅力的な動物園ばかりだ。
その中で私が特に心を惹かれたのは、秋吉台自然動物公園サファリランドのアフリカハゲコウ。動物園という空間で、大型鳥類が大空を自由に飛ぶことなど、誰が想像しただろうか?
アフリカハゲコウは、コウノトリの仲間で黒い翼は左右併せて2・5メートルにもなる。細くて長い脚に支えられた体は白い羽根に包まれ、淡いピンクの頭部からは頑丈そうな長い嘴が伸びる。体高は1・3メートルほど。
そんな大きな鳥を羽切り(毎年生え変わる風切り羽を切断する“仮切羽”と生涯飛べなくなる“断翼術”と“断腱術”の三種類がある)もせずに、オープンな形式で展示することが可能なのだろうか?

普通に考えて、動物園の中で、本当の能力や野生の姿を来園者に見せるのが最も難しいのが大型鳥類だろう。
しかし、飼育員の佐藤さんはそんな固定概念を破ったのだ。鷹匠の技術を持つ彼女はハリスホークやフクロウのフライトを来園者に見せるイベントを担当していた。彼女を中心に組まれたチームは、テクニックや知識を応用し、動物の心身に寄り添いながら、タンザニアから運ばれて来た二羽のアフリカハゲコウ、雌のキン・雄のギンをトレーニングした。

野生の成獣をトレーニングすることは難しい。
しかもアフリカハゲコウについては飼育方法さえ手さぐりに近い。トレーニングのノウハウについてはゼロからのスタートだ。まず、この場所が二羽にとって快適で安全な家であること、そこに出入りする人間が絶対に危険ではないと認識してもらうことから始める。
勿論、トントン拍子にはいかない。
常夏のタンザニアから来た二羽に日本の気候は厳しく、体調を崩したこともあった。
飼育トレーニングを担当して一年半、フリーフライト中にロストしてしまったこともあった。逃走動物の中でも鳥類は格段に捕獲率が低い。和歌山市で発見されたキンを無事に保護するまでには大変な労力を使った。それでも、現場の人間だけでなく、本社幹部もアフリカハゲコウのフリーフライトの続行を選択した。
キンとギンを外に出すときには、必ずGPSを装着させることになった。ロストはあってはならない。これは動物園の大原則だ。佐藤さんの中には、いつかまた何かが起こるのでは…という懸念もある。それでもキンとギンが、彼らにとって当たり前の姿でいられるように創意工夫を続ける。だって、鳥は空を飛ぶものだからだ。

秋吉台自然動物公園サファリランドのある山口県は、我が家のある神奈川県からは、かなり遠い。我が家にもペットの犬猫らがいるので、何日も家を空けることが難しい。それでも、何とか工夫して、観覧車をバックに美しく旋回するアフリカハゲコウの姿を拝んでみたい。そして、その裏にある飼育員の努力に思いを馳せてみたいと思うのだ。
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