万城目学著『パーマネント神喜劇』は、「はじめの一歩」「当たり屋」「トシ&シュン」「パーマネント神喜劇」の四つからなる連作短編集。表紙の派手なシャツに吊りバンドの小太りは、実は縁結びの神様である。
第一話の「はじめの一歩」では、この連作のお約束が読者に提示される。
「はじめの一歩」は、縁結びのお勤めをざっと千年続けて来た下っ端の神様が、フリーライターからインタビューを受けるところから始まる。縁結びの神様のお勤めを一冊の本にまとめるらしい。縁結びの神様は本のネタにするために、恋人から口癖と優柔不断についてダメ出しを食らった若いサラリーマン篠崎肇の願いを叶えてやるところを取材される。篠崎がメインと見せかけて実は…なのだが。
それ以降、この連作は縁結びの神様とフリーライターのやり取りを主軸に、神様にお願いごとをするゲストキャラが絡んでいく形で進んでいく。
この物語では神様が人間を造るのではなく人間が神様を造る。
日本神話では人間は神に造られたものではなくいつの間にか存在していて、降臨してきた神々と外国人くらいの距離間で関係を持っているが、本作ではもっと神様と人間の間の垣根が低くて、ゆる~い共存関係を構築している。縁結びの神様なんか、ご近所か親戚のオッチャンくらいの気安い印象だ。
この物語の神様は、人間たちに名前を忘れられると消滅してしまう。
善神か悪神かは関係ない。縁結びの神様のお師匠様は、結構気前よく雨を降らせてあげる良い神様だったが、それでも人間に忘れられて消滅してしまった。身近な神様の消滅、それは誰もがいつかは経験することらしい。現代に入ってからは、土地の再開発や若者の都市部への流出などで消滅する共同体が増えたから、それに伴って神様の消滅も増えているかもしれない。
神様は言霊を打ち込むことで人間の願いを叶える。
言霊はその都度、その場で生み出さねばならない。また、お願いを聞いてあげる相手のことは一応観察して、手を差し伸べるに足る人間かどうかの見極めはしている。魂の汚れた相手だと気分が乗らないのだそうだ。もっとも、最近の人間は、はっきり汚れているとわかる魂の持ち主の方が少なく、やけに萎れた感じの捉え難い魂を持ったものが多くて、言霊がなかなか浸透しないのだそうだ。
神様のお勤めは結構ハードだ。
やれノルマだ、やれ定期報告だと上位の神様からの要求が厳しく、結果がすべてで数字に表れない細やかな対応は評価されない。転勤やそれに伴う引き継ぎなんかもある。そんなところは人間の組織と変わらない。
人間と変わらないと言えば、この神様は本当に人間臭い。
「はじめの一歩」ではやけに印税の分配を気にしていたが、「当たり屋」では昇進に伴う異動の知らせに舞い上がったかと思えば、仕事に必要な神宝を失くして右往左往するという落ち着きの無さ。この神宝とはクリスマスからお正月にかけての繁忙期「神のゴールデンウィーク」の修羅場を乗り切るために必要なアイテムなのだが、縁結びの神様は御法度である言霊のストックにこれを使用していたのだ。つまり、本来ならその場で作らなければならない言霊を時間がある時に作り置きしていたのである。バレたら昇進は取り消しだ。繁忙期とか商品のストックとか、やっていることが身近過ぎる。宗教がちゃんぽんなところも。
行方不明になった神宝の中に入っていた七つ言霊は、謎の女によってすべてゲストキャラの宇喜田英二に打ち込まれてしまう。
この英二という男はタイトル通り、当たり屋稼業で糊口をしのいでいるケチな犯罪者だ。それ以前も、“中学生の頃のカツアゲに始まって、自動販売機の釣り銭ドロ、高校生になってからは名簿の転売、芸能人の偽造サインをオークションに流す、最近じゃ、振り込め詐欺の手伝いまでもやっている”というナチュラル・ボーン・小悪党で、今回の神様へのお願いも、当たり屋で負った怪我の治癒というしょうもなさ。病院に行く金が惜しいのだ。だが、こんなろくでなしにも、拾ってくれる神様はいるのである。
私は、『パーマネント神喜劇』では、この「当たり屋」が一番好きだ。
四作の中では最も重要性が低く、ゲストキャラの人間性にも問題があるが(他の三作のゲストはサラリーマン、小説家を目指すフリーター、小学生とまともな人間ばかり)、大らかな日本人の神仏観がもっとも強く表れていると思う。それ以前に、私自身が犯罪者にこそならなかったものの、幾度となく墜落しかけてきたダメ人間なので、この男の気持ちがわかってしまうのだ。
英二は「はじめの一歩」で神様が言っていた言霊がなかなか浸透しない萎れた魂の持ち主で、その覇気の無さのせいで同棲相手に愛想をつかされてしまう。だが、そんな男でも神様のアシスト(?)で、改悛することが出来た。そして、神様の方もオロオロしているうちに(神宝を紛失したショックで吐き気まで催していたが、神様は物を食うのだろうか?)、なんとなく縁結びのお勤めを果たせたのが良い。人間と神様がお互いに良い影響を与え合っているのだ。
第三話「トシ&シュン」は、『バベル九朔』のテナントで働いていたことが縁で恋人になった、小説家を目指しているトシと女優を目指しているシュンのお話。この二人も「バベル九朔」に夢を食われ続けていた犠牲者なのだろうか。縁結びの神様は恋愛成就が主な仕事で、芸能の成就は専門外なのだが、この先二人はどうなるのか。
第四話「パーマネント神喜劇」は、この連作の言わば真打で、他の三作が50頁前後であるのに対し、約80頁とボリュームも多い。
『かのこちゃんとマドレーヌ夫人』では、小学一年生だったかのこちゃんが小学三年生になって登場してくれたのも、万城目作品を長く読んできた者としては嬉しい。
縁結びの神様はフリーライターから刷り上がったばかりの本をプレゼントされる。『タイトルは『つとめる、かみさま』。著者名は「ちはやふりー」。
縁結びの神様の祀られる地域で、地震活動が活発になる。地震の揺れでご神木が倒れ、神様は閉じ込められてしまう。
ゲストヒロインの美琴ちゃんが、たまたま縁結びの神様が前にお勤めしていた神社を訪れ、たまたまマテバシイのご神木から落ちた発芽可能な種子を手にいる。それが「不慮の事故などで神性が神木にふうじこめられたとき、過去にその神性が宿っていた神木の苗と接触させることで、神性を一時的に苗に避難させることが出来る」という、緊急手段に使われる。勿論、この度重なる偶然は、本当は偶然などではない。その裏には「ちはやふりー」の献身があった。
「はじめの一歩」で語られていた神様の消滅が具体的にどういうことなのかが、この「パーマネント神喜劇」で語られる。
大災害の直前には神様たちにも避難命令が発令される。
数百年前に起きた大災害では、避難命令がとにかく急だった。縁結びの神様の神社は避難地域に含まれなかったけど、お師匠様の神社がある山奥の小さな村はそのど真ん中だった。
でも、お師匠様は命令に従わなかった。神様が逃げた村では大勢の人間が死んだけど、お師匠様の村だけは全員無事だった。お師匠様が身体を張って守ったからだった。
しかし、その一ヵ月後にお師匠様は消滅した。人間たちが、お師匠様ごとボロボロになった村を捨てて出て行ってしまったからだ。名前を忘れられると同時にお師匠様はあっけなく消えた。
美琴ちゃんと「ちはやふりー」に救われ現場復帰した縁結びの神様は、二千年前から予定されていた大神様の活動――何十万人もの命が奪われるであろう噴火と大地震――に対して、お師匠様と同じ選択をする。
“人間に祀られるから、我々は存在する。”
人間が去ってしまったら、下々の神は神通力と神性を失ってしまう。いわば、人間が神様を消してしまうのだ。これは『偉大なる、しゅららぼん』と同じだ。思えば、万城目氏の作品は、失われていくものたちに寄り添った作品が多い。
『パーマネント神喜劇』は、復興に励む人々と、震災の中で生まれた赤ん坊の健やかな成長を描いて、明るい雰囲気の中終幕する。「ちはやふりー」の次回作の構想についても触れられたりして。
神様がパーマネント(永遠)にお勤めできるかどうかは、人間次第だ。
日本では毎年のように大規模な災害が起こる。だが、被災地に留まって復興に尽力する人、やむなく去らねばならなくても故郷を忘れない人がいる限り、その土地の神様は消えない。縁結びの神様自らが言っているように、神様は人間が思っているほど万能ではない。目に見える形で人間にしてあげられることはそう多くはない。だが、どれほどボロボロになったって、人間が神様を忘れない限り、故郷は死なない。日本人にとって、神様とは人間に苦行を強いる厳しい存在ではなく、心の拠り所であり故郷の象徴なのだ。
この剽軽な表紙の本から、災害と復興、そして信仰について真剣に考えさせられるとは思わなかった。
第一話の「はじめの一歩」では、この連作のお約束が読者に提示される。
「はじめの一歩」は、縁結びのお勤めをざっと千年続けて来た下っ端の神様が、フリーライターからインタビューを受けるところから始まる。縁結びの神様のお勤めを一冊の本にまとめるらしい。縁結びの神様は本のネタにするために、恋人から口癖と優柔不断についてダメ出しを食らった若いサラリーマン篠崎肇の願いを叶えてやるところを取材される。篠崎がメインと見せかけて実は…なのだが。
それ以降、この連作は縁結びの神様とフリーライターのやり取りを主軸に、神様にお願いごとをするゲストキャラが絡んでいく形で進んでいく。
この物語では神様が人間を造るのではなく人間が神様を造る。
日本神話では人間は神に造られたものではなくいつの間にか存在していて、降臨してきた神々と外国人くらいの距離間で関係を持っているが、本作ではもっと神様と人間の間の垣根が低くて、ゆる~い共存関係を構築している。縁結びの神様なんか、ご近所か親戚のオッチャンくらいの気安い印象だ。
この物語の神様は、人間たちに名前を忘れられると消滅してしまう。
善神か悪神かは関係ない。縁結びの神様のお師匠様は、結構気前よく雨を降らせてあげる良い神様だったが、それでも人間に忘れられて消滅してしまった。身近な神様の消滅、それは誰もがいつかは経験することらしい。現代に入ってからは、土地の再開発や若者の都市部への流出などで消滅する共同体が増えたから、それに伴って神様の消滅も増えているかもしれない。
神様は言霊を打ち込むことで人間の願いを叶える。
言霊はその都度、その場で生み出さねばならない。また、お願いを聞いてあげる相手のことは一応観察して、手を差し伸べるに足る人間かどうかの見極めはしている。魂の汚れた相手だと気分が乗らないのだそうだ。もっとも、最近の人間は、はっきり汚れているとわかる魂の持ち主の方が少なく、やけに萎れた感じの捉え難い魂を持ったものが多くて、言霊がなかなか浸透しないのだそうだ。
神様のお勤めは結構ハードだ。
やれノルマだ、やれ定期報告だと上位の神様からの要求が厳しく、結果がすべてで数字に表れない細やかな対応は評価されない。転勤やそれに伴う引き継ぎなんかもある。そんなところは人間の組織と変わらない。
人間と変わらないと言えば、この神様は本当に人間臭い。
「はじめの一歩」ではやけに印税の分配を気にしていたが、「当たり屋」では昇進に伴う異動の知らせに舞い上がったかと思えば、仕事に必要な神宝を失くして右往左往するという落ち着きの無さ。この神宝とはクリスマスからお正月にかけての繁忙期「神のゴールデンウィーク」の修羅場を乗り切るために必要なアイテムなのだが、縁結びの神様は御法度である言霊のストックにこれを使用していたのだ。つまり、本来ならその場で作らなければならない言霊を時間がある時に作り置きしていたのである。バレたら昇進は取り消しだ。繁忙期とか商品のストックとか、やっていることが身近過ぎる。宗教がちゃんぽんなところも。
行方不明になった神宝の中に入っていた七つ言霊は、謎の女によってすべてゲストキャラの宇喜田英二に打ち込まれてしまう。
この英二という男はタイトル通り、当たり屋稼業で糊口をしのいでいるケチな犯罪者だ。それ以前も、“中学生の頃のカツアゲに始まって、自動販売機の釣り銭ドロ、高校生になってからは名簿の転売、芸能人の偽造サインをオークションに流す、最近じゃ、振り込め詐欺の手伝いまでもやっている”というナチュラル・ボーン・小悪党で、今回の神様へのお願いも、当たり屋で負った怪我の治癒というしょうもなさ。病院に行く金が惜しいのだ。だが、こんなろくでなしにも、拾ってくれる神様はいるのである。
私は、『パーマネント神喜劇』では、この「当たり屋」が一番好きだ。
四作の中では最も重要性が低く、ゲストキャラの人間性にも問題があるが(他の三作のゲストはサラリーマン、小説家を目指すフリーター、小学生とまともな人間ばかり)、大らかな日本人の神仏観がもっとも強く表れていると思う。それ以前に、私自身が犯罪者にこそならなかったものの、幾度となく墜落しかけてきたダメ人間なので、この男の気持ちがわかってしまうのだ。
英二は「はじめの一歩」で神様が言っていた言霊がなかなか浸透しない萎れた魂の持ち主で、その覇気の無さのせいで同棲相手に愛想をつかされてしまう。だが、そんな男でも神様のアシスト(?)で、改悛することが出来た。そして、神様の方もオロオロしているうちに(神宝を紛失したショックで吐き気まで催していたが、神様は物を食うのだろうか?)、なんとなく縁結びのお勤めを果たせたのが良い。人間と神様がお互いに良い影響を与え合っているのだ。
第三話「トシ&シュン」は、『バベル九朔』のテナントで働いていたことが縁で恋人になった、小説家を目指しているトシと女優を目指しているシュンのお話。この二人も「バベル九朔」に夢を食われ続けていた犠牲者なのだろうか。縁結びの神様は恋愛成就が主な仕事で、芸能の成就は専門外なのだが、この先二人はどうなるのか。
第四話「パーマネント神喜劇」は、この連作の言わば真打で、他の三作が50頁前後であるのに対し、約80頁とボリュームも多い。
『かのこちゃんとマドレーヌ夫人』では、小学一年生だったかのこちゃんが小学三年生になって登場してくれたのも、万城目作品を長く読んできた者としては嬉しい。
縁結びの神様はフリーライターから刷り上がったばかりの本をプレゼントされる。『タイトルは『つとめる、かみさま』。著者名は「ちはやふりー」。
縁結びの神様の祀られる地域で、地震活動が活発になる。地震の揺れでご神木が倒れ、神様は閉じ込められてしまう。
ゲストヒロインの美琴ちゃんが、たまたま縁結びの神様が前にお勤めしていた神社を訪れ、たまたまマテバシイのご神木から落ちた発芽可能な種子を手にいる。それが「不慮の事故などで神性が神木にふうじこめられたとき、過去にその神性が宿っていた神木の苗と接触させることで、神性を一時的に苗に避難させることが出来る」という、緊急手段に使われる。勿論、この度重なる偶然は、本当は偶然などではない。その裏には「ちはやふりー」の献身があった。
「はじめの一歩」で語られていた神様の消滅が具体的にどういうことなのかが、この「パーマネント神喜劇」で語られる。
大災害の直前には神様たちにも避難命令が発令される。
数百年前に起きた大災害では、避難命令がとにかく急だった。縁結びの神様の神社は避難地域に含まれなかったけど、お師匠様の神社がある山奥の小さな村はそのど真ん中だった。
でも、お師匠様は命令に従わなかった。神様が逃げた村では大勢の人間が死んだけど、お師匠様の村だけは全員無事だった。お師匠様が身体を張って守ったからだった。
しかし、その一ヵ月後にお師匠様は消滅した。人間たちが、お師匠様ごとボロボロになった村を捨てて出て行ってしまったからだ。名前を忘れられると同時にお師匠様はあっけなく消えた。
美琴ちゃんと「ちはやふりー」に救われ現場復帰した縁結びの神様は、二千年前から予定されていた大神様の活動――何十万人もの命が奪われるであろう噴火と大地震――に対して、お師匠様と同じ選択をする。
“人間に祀られるから、我々は存在する。”
人間が去ってしまったら、下々の神は神通力と神性を失ってしまう。いわば、人間が神様を消してしまうのだ。これは『偉大なる、しゅららぼん』と同じだ。思えば、万城目氏の作品は、失われていくものたちに寄り添った作品が多い。
『パーマネント神喜劇』は、復興に励む人々と、震災の中で生まれた赤ん坊の健やかな成長を描いて、明るい雰囲気の中終幕する。「ちはやふりー」の次回作の構想についても触れられたりして。
神様がパーマネント(永遠)にお勤めできるかどうかは、人間次第だ。
日本では毎年のように大規模な災害が起こる。だが、被災地に留まって復興に尽力する人、やむなく去らねばならなくても故郷を忘れない人がいる限り、その土地の神様は消えない。縁結びの神様自らが言っているように、神様は人間が思っているほど万能ではない。目に見える形で人間にしてあげられることはそう多くはない。だが、どれほどボロボロになったって、人間が神様を忘れない限り、故郷は死なない。日本人にとって、神様とは人間に苦行を強いる厳しい存在ではなく、心の拠り所であり故郷の象徴なのだ。
この剽軽な表紙の本から、災害と復興、そして信仰について真剣に考えさせられるとは思わなかった。