青い花

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盗まれた手紙

2019-11-05 07:28:24 | 日記
ポー著『盗まれた手紙』には、ボルヘスによる序文と、「盗まれた手紙」「壜のなかの手記」「ヴァルドマル氏の病症の真相」「群衆の人」「落とし穴と振り子」の五編が収録されている。

本書は、ボルヘス編集の“バベルの図書館” (全30巻)の11巻目にあたる。私にとっては26冊目の“バベルの図書館”の作品である。

ボルヘスは序文の頭で以下のような指摘をしている。

“ある作家の書かれた著作に、われわれはしばしばもう一つ、おそらくさらに重要なものを付け加える必要がある。すなわちその作家について幾世代にもわたるイメージを、である。例えば、人間バイロンのほうがバイロンの作品よりさらに不朽であり、もっと生き生きとしているし、人間エドガー・アラン・ポーのほうが、彼の書いたどのページよりも、そしてそれらのページの総和さえよりも、もっと明確な存在となっているのである。”

その人の作品を一つも読んでなくても、その人の生涯を凡そイメージすることができる。さらには、読者の悲劇趣味とか、感傷とか、ロマンティシズムとかを投影することができる、そんな存在。
作品の総体よりも、それらを生み出した作家本人についてのイメージの方が広く長く受け継がれてしまうという現象は、作家にとってはあまり嬉しいことではないのかもしれない。

ポーの人生には読者の妄想を掻き立ててやまない要素がいくつもあるが、ポー自身がそれらを直接題材にした作品を書いたことは一度もなかった。勿論、人間の脳髄が生み出した作品であるから、本人の実生活から全く影響を受けていないわけはない。しかし、そこにポーの人生への過度な思い入れを押し込めて作品を読むのは、ポーの創作流儀に反する読み方であるような気がする。
ポーだけでなく、バイロン、ベックフォード、リラダン、ダンセイニ卿、ワイルドなど伝説的な生き方をした作家ほど、自身の実体験に頼らない作品を書いているのは興味深くはあるが。

ボルヘスは、“悪夢という言葉がポーの物語のほとんどすべてに適用できる”と述べている。
本巻には、探偵小説「盗まれた手紙」と四つの幻想小説が選ばれている。より悪夢の要素が強いのは、言うまでもなく後者四作品であるが、ポーが探偵小説というジャンルの開祖(『モルグ街の殺人』)であることを考えれば、「盗まれた手紙」を無視するわけにはいかない。


「盗まれた手紙」は、「モルグ街の殺人」「マリー・ロジェの謎」に続き、C・オーギュスト・デュパンを探偵役とするシリーズの三作目にあたる。

“推理者の知性を相手の知性に合わせる、ということだよ。”

デュパンの元に、パリ警察の警視総監G**氏が、事件の相談を持ち掛けてくる。
ある極め付きの重要書類が盗まれた。盗んだ人物は分かっている。書類がまだその人物の手元にあることも分かっている。また、被害者は犯人が誰なのか分かっているということを犯人は知っている、ということも分かっている。
被害者の貴婦人は、王宮の婦人用私室に一人きりの時にその手紙を受け取り、その同じ場所でD**大臣に盗まれたのだという。しかし、D**大臣の屋敷を家宅捜索しても、彼の身体検査をしても、手紙は出てこなかった。
D**大臣は、詩人であり、数学者でもある。さらには、ある陰謀に加担しているという噂もあるアクの強い人物である。彼は何のために手紙を盗み、どこに隠しているのか――。

推理者が容疑者の思考・行動を探るためには、まず、相手の知性のレベルを知らなければならない。自分の尺度で考えてはいけない。自分の知性を相手の知性のレベルに合わせるのだ。相手より上でも下でも、真実を読み違えてしまう。この推理の基本は、アーサー・コナン・ドイルが名探偵の代表格シャーロック・ホームズに同じ意味のセリフを言わせている。また、デュパンの長弁舌な衒学趣味は、小栗虫太郎の名探偵・法水麟太郎にも受け継がれている。
推理小説にあまり親しんでこなかった私にも、デュパンから影響を受けたと思われる探偵シリーズを二つ思い浮かべることができた。推理小説愛好家なら、きっともっとたくさんの名探偵の名前が浮かぶことだろう。


「ヴァルドマル氏の病症の真相」は、瀕死の病人を被験者としたある催眠術の実験。本巻の中では、この作品が一番面白かった。

実験に参加した催眠術師の報告によると、実験は、第一に、瀕死の状態にある患者に果たして催眠術がかかるのか、第二に、仮にかかるとしても、それは瀕死の状態によって効き目が変わるのか、第三に、催眠術をかけることによって、「死」の侵入をどの程度まで、あるいはどれくらいの期間抑えることができるのか、の三つの問題を確かめるために行われたのだという。

被験者に選ばれたのは、アーネスト・ヴァルドマル氏。
邪魔立てする親族が一人もおらず、本人も実験に強い興味を持っていて、いつ死をもって終わりを告げるかということに関して正確に予測できる病気に罹っているという、実験材料にうってつけの人物だった。

報告より七ヵ月前、報告者はヴァルドマル氏から、明日の真夜中までは持つまいという走り書きを受け取る。
それから15分後には、報告者はヴァルドマル氏に病室にいた。
報告者は、ベッドの傍らに付き添っているD**とF**の両医師から病人の容態の詳細な説明を受け、ヴァルドマル氏の意思を確認すると、催眠術の実験を開始する。

催眠術をかけられたヴァルドマル氏は、報告者の質問に対して、自分が死に至る過程のどの段階にいるのかを語りだす。
「痛みはない――死にかけているんだ」から始まり、「まだ眠っている――死ぬところだ」へ続き、「うん――いや――眠っていた――だがいまは――死んでいるんだ」へ至る小刻みな死の進度の回答の段階で、もう戦慄的な恐怖は抑えられなくなるが、ここまではまだ、実験の序盤だ。

この日から報告の一週間前まで、実験者たちは死の侵入を留め置くことに成功した。この期間、ヴァルドマル氏の状態は全く同じままだったのだ。
ついに、実験者たちはヴァルドマル氏を覚醒させる実験に着手する決意を固めた。
事態はここから、報告者も、医師や看護人も、勿論、ヴァルドマル氏自身も、誰もが予想しなかった吐き気を催すような悪夢的な展開を見せる。

“後生だ!――早く!――早く!――眠らせてくれ――でなければ、目覚めさせてくれ!――早く!――わたしは死んでいるんだぞ!”

ラスト2ページの、ヴァルドマル氏の断末魔の叫びと、彼の肉体が急速に溶解し液状化していく様は、作中の時間にして殆ど一分にも経たぬうちに起きた出来事だ。
冒頭から結末に至る完璧な首尾一貫性と、緊迫と恐怖を煽る効果を狙って正確に配置された言葉。極度に意識的な技巧で描かれたこの作品は、短編恐怖小説の最高ランクに位置する作品の一つだろう。


「落とし穴と振り子」は、異端審問所の地下牢に閉じ込められた死刑囚の恐怖体験。
縛られて身動き出来ない人物の上に、横降りしながらジワジワと下降してくる巨大な弦月刀は、江戸川乱歩あたりが好みそうな装置だなと思った。

リラダンの「希望」と似た要素の物語だが、結末は正反対だ。
「希望」は、“バベルの図書館”の29巻、リラダン著『最後の宴の客』に収録されている。ボルヘスが同じシリーズに似たようなテーマの作品を二つ選んだのには、彼なりの理由があるのだろう。私個人としては、最後に救いが現れる本作より、完膚なきまでに絶望の淵に叩き込まれる「希望」の方が好みだ。希望こそが犠牲者の精神を追い詰める最悪の拷問、という強者の無慈悲がいっそ心地良かったのだ。しかし、リラダンよりもポーの方が多くの読者を得ているのは、周知の事実ではある。
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