蒲松齢著『聊斎志異』には、ボルヘスによる序文と、蒲松齢の『聊斎志異』から選ばれた「考城隍(氏神試験)」「長清僧(老僧再生)」「席方平(孝子入冥)」「単道士(幻術道士)」「郭秀才(魔術街道)」「龍飛相公(暗黒地獄)」「銭流(金貨迅流)」「褚遂良(狐仙女房)」「苗生(虎妖宴遊)」「趙城虎(猛虎贖罪)」「夢狼(狼虎夢占)」「向杲(人虎報仇)」「画皮(人皮女装)」「陸判(生首交換)」の14編が収録されている。()内は訳題。なぜ四文字熟語風に統一したのかはわからない。
本作にはほかに、曹雪芹の『紅楼夢』から選ばれた「夢のなかのドッペルゲンゲル」「鏡のなかの雲雨」の2編も収録されている。
本書は、ボルヘス編集の“バベルの図書館” (全30巻)の10巻目にあたる。私にとっては28冊目の“バベルの図書館”の作品である。
“バベルの図書館”を全巻読破しようと思い立った時に、『千夜一夜物語 -ガラン版』と『千夜一夜物語 -バートン版』を最後にもっていき、その一つ前に『聊斎志異』を読もうと決めていた。何故なら、『聊斎志異』の大量の掌編からなる構成が『千夜一夜物語』を彷彿させたので。ボルヘスによると、“中国で『聊斎志異』が占める位置は西洋で『千夜一夜』の書が占める位置に匹敵する”のだそうだ。
“一国を表すのに、その国民の想像力ほど特徴的なものはない。小冊ながら本書は、この地上でもっとも古い文化の一つであると同時に、幻想小説へのもっとも異例な接近の一つを垣間見せてくれるのである。”
中国文学といえば、日本人なら『西遊記』『水滸伝』『三国志演義』などを思い浮かべる人が多いと思う。
本書に収められている作品では、『紅楼夢』は、上にあげた三書に準ずるくらい有名だが(『金瓶梅』くらい?)、『聊斎志異』を読んだことがある、あるいはタイトルは聞いたことがあるという人は、それなりに中国文学を知っている人に限られるのではないか。
このように、日本ではあまり知られていない『聊斎志異』だが、中国では刊行直後から流行を見せ(低級との批判を受けつつも)、多くの模倣者を生んだという。
『聊斎志異』は約500編の短編から構成される大作で、本書の中にはそのうちの14編しか収録されていない。それ故、ボルヘスも小冊と謙遜しているのだろう。14編のうち虎にまつわる話を4遍も選んでいるのがボルヘスらしい。
膨大なテキストで構成されているため、なかなか手を出し辛い作品だが、本書に収められているのは、そのうちの僅か14編なので数時間で読み終えた。
簡潔な文章で、一話ごとの登場人物が少なく、事前に抑えておかなければならない予備知識も特にない。新聞小説くらいの気軽さで読める。『西遊記』『水滸伝』『三国志演義』に比べると、はるかにとっつき易い。
ボルヘスは、“エドガー・アラン・ポーやホフマンとは違い、蒲松齢は自分が語る怪異に驚いてはいない。”と言う。“迷信深い性格を賦与された中国の人たちが、ともすればこれらの物語をあたかも現実のことであるかのように読みがちであった”とも言っている。
本書に収録された14編の中で、何度も「冥界と陽界は変わらない」という表現が出てくる。蒲松齢の描く冥界は、現世そのままの汚職役人の世界だ。それが、諧謔と諷刺と、逞しい想像力を織り込んだ、簡素で非個人的な報告的口調で綴られる。
賄賂で動く地獄の法官、試験勉強に苦しむ書生、老婆の元へ償いに通う虎、美女の皮を被って男を騙す鬼……幻想と現実とがシームレスに淡々と語られる物語群が面白くない訳がない。一話につき数ページという短さで、次々に新しい物語が現れるので、疲れを感じる間もなく読み耽ってしまえるのだ。素晴らしい庶民文学である。
蒲松齢は、進士の試験を何度も落第した秀才とは言い難い人物だった。妾の子であったため、生家での地位は低かった。生涯貧しさから抜け出すことはなかった。『聊斎志異』が刊行されたのは、彼の死後約半世紀も経ってからのことだった。
『聊斎志異』の親しみやすさや、簡素な文体ながらも豊かな視点などは、彼の不運な生涯に起因しているのかなと思ったりもした。
個人的には、「席方平(孝子入冥)」「単道士(幻術道士)」「郭秀才(魔術街道)」「趙城虎(猛虎贖罪)」「画皮(人皮女装)」あたりが特に面白かった。
「席方平(孝子入冥)」は、地獄で亡父が鬼卒達から不当な拷問を受けていることを知った孝行息子の席生が、地獄に赴き不正を訴える話だ。
鬼卒達は、席生の父と仲の悪かった羊某から賄賂を受け取っていたのだ。
地獄は席生が思っていた以上に腐敗した官僚社会だった。なんと城隍、郡司、冥王までもが賄賂を受け取っていて、席生は訴えを退けられた挙句、嘘の申し立てをしたとして苛烈な拷問を加えられてしまう。しかし、最後には冥王達より高位の玉帝によって、席親子は救われ、冥王達は懲らしめられるのである。
「単道士(幻術道士)」は、自由自在に姿を消すことの出来る道士の話。
単道士は、韓家の御曹司から法を伝授して欲しいと請われるが、悪用されるのを心配して断る。
腹を立てた御曹司は、下僕たちと図り、単道士を脱穀場に閉じ込め、打ち据えようとする。しかし、単道士は壁に城門の絵を描くと、それを押し開いて逃げてしまった。
私の年代だと道士と聞くとキョンシーを思い浮かべてしまうが、道家の幻術使いは、道教文化の中国では、日本の陰陽師並みに親しまれている存在なのかもしれない。ドラえもんの道具みたいな方法で空間移動出来るのが面白かった。
「郭秀才(魔術街道)」は、道に迷った若者が、魔物たちの酒宴に参加する話。
郭は友人宅から帰る途中、山中で迷ってしまう。
山の上からの笑い声につられて、急ぎ行ってみると、そこでは10人余りの者たちが酒盛りをしていた。道を尋ねた郭は、そんなことよりと盃を渡される。
冗談好きな郭が特技の鳥の鳴き真似をして見せると、それをたいそう気に入った一同から、お返しに肩乗りの術を披露される。一人が直立すると、もう一人がその肩の上に乗って直立する。これを10人余りの人物が続け、バタンと倒れると一条の道ができた。彼らと、「中秋の夜、またここで会おう」と約束した郭は、道に沿って家に辿り着くことが出来た。
しかし、中秋になったので、彼らに会いに行こうとしたら、友人たちに止められてしまった。
郭は約束を破った事を悔やむが、会いに行ったら彼らの仲間にされていたかもしれない。でも、冗談好きの郭ならそれも楽しめたかも?
「趙城虎(猛虎贖罪)」は、一人息子を虎に食い殺された老婆と、その虎の物語。
一人きりの倅を虎に食い殺された老婆が、知事に訴える。泣きわめく老婆に手を焼いた知事は、下端役人の李能に虎の捕縛を命じる。
杖刑を恐れた李能はしぶしぶ虎の捕縛に向かうが、案外物分かりのいい虎は、李能の説得に応じ、倅に代わり、身寄りの無くなった老婆の孝行に励み始める。
はじめは、虎を殺し倅の償いをさせるべきだと知事を恨んでいた老婆も、虎の孝養に感謝するようになる。虎も老婆に懐き、かくして人と獣が互いに気を許し、疑うことない仲になったのだった。
虎の方が、倅より稼ぎが良かったり、人情を理解していたりする描写にクスリとなる。老人と獣という取り合わせが醸し出すほのぼの感も良い。
「画皮(人皮女装)」は、美女の生皮を被った鬼に夫の心臓を抜かれて殺された妻が、夫を生き返らせる話。
王生という男が、親に売られそうになり逃げて来たという美少女をうちに連れ帰り、養うことにする。妻の陳氏は、御大家の妾かもしれないから出した方が良いと意見するが、王生はこれを無視した。
ある日、王生は道端で一人の道士から「あんたの体には邪気がまとわりついている。死が近い」と告げられる。王生は道士の言葉を信じなかったが、帰宅してから美少女の部屋を覗いてみたら、中では獰猛な青鬼が人皮を被って美少女に化けているところだった。
道士に助けを求めた王生は、道士から鬼除けの払子を授けられるが、結局、青鬼に内蔵を抜かれて殺されてしまう。
陳氏が、夫を蘇らせて欲しいと道士に頼むと、道士から死人を蘇らせることの出来る男を教えられる。その人物はたいそうな奇人変人だが、願いを聞いて欲しければ、決して逆らってはいけないという。
その男は、陳氏が想像していた以上に無礼だった。
陳氏は散々に侮辱され、男が吐いた拳大の痰の塊を飲み干せと命じられる。一切逆らわず痰を飲んだが、何も起こらないまま男は姿を消してしまう。
陳氏は屈辱に打ち震えながら帰宅すると、無残に切り裂かれた夫の遺体を清めようとする。すると、にわかに吐き気がこみ上げ、何かの塊を亡骸の腹腔の中に吐き出してしまう。
それは、温かく動く心臓だった。陳氏が夫を抱きしめると、夫の腹腔は塞がり、彼は生き返ったのだった。
『紅楼夢』については、ボルヘスは序文で、“(ロシア文学やアイルランドのサガをも凌ぐ登場人物の多さに)一見しただけで読者は意気銷沈させられてしまう”と述べている。
が、それはあまり読書習慣の無い者の気持ちを代弁しているのだけで、ボルヘス自身はこの3000ページを超える巨編を寧ろワクワクしながら読んだのではないかと思っている。
「夢のなかのドッペルゲンゲル」は、ボルヘスは『夢の本』でも、「宝玉の果てしない夢」というタイトルで取り上げていた。余程お気に入りの一編なのだろう。
このブログでも、『夢の本』の読書感想で既に取り上げているので詳しくは触れないが、円環の夢をテーマとしたこの掌編は、まるでボルヘス自身が書いた作品のようだと思った。
本作にはほかに、曹雪芹の『紅楼夢』から選ばれた「夢のなかのドッペルゲンゲル」「鏡のなかの雲雨」の2編も収録されている。
本書は、ボルヘス編集の“バベルの図書館” (全30巻)の10巻目にあたる。私にとっては28冊目の“バベルの図書館”の作品である。
“バベルの図書館”を全巻読破しようと思い立った時に、『千夜一夜物語 -ガラン版』と『千夜一夜物語 -バートン版』を最後にもっていき、その一つ前に『聊斎志異』を読もうと決めていた。何故なら、『聊斎志異』の大量の掌編からなる構成が『千夜一夜物語』を彷彿させたので。ボルヘスによると、“中国で『聊斎志異』が占める位置は西洋で『千夜一夜』の書が占める位置に匹敵する”のだそうだ。
“一国を表すのに、その国民の想像力ほど特徴的なものはない。小冊ながら本書は、この地上でもっとも古い文化の一つであると同時に、幻想小説へのもっとも異例な接近の一つを垣間見せてくれるのである。”
中国文学といえば、日本人なら『西遊記』『水滸伝』『三国志演義』などを思い浮かべる人が多いと思う。
本書に収められている作品では、『紅楼夢』は、上にあげた三書に準ずるくらい有名だが(『金瓶梅』くらい?)、『聊斎志異』を読んだことがある、あるいはタイトルは聞いたことがあるという人は、それなりに中国文学を知っている人に限られるのではないか。
このように、日本ではあまり知られていない『聊斎志異』だが、中国では刊行直後から流行を見せ(低級との批判を受けつつも)、多くの模倣者を生んだという。
『聊斎志異』は約500編の短編から構成される大作で、本書の中にはそのうちの14編しか収録されていない。それ故、ボルヘスも小冊と謙遜しているのだろう。14編のうち虎にまつわる話を4遍も選んでいるのがボルヘスらしい。
膨大なテキストで構成されているため、なかなか手を出し辛い作品だが、本書に収められているのは、そのうちの僅か14編なので数時間で読み終えた。
簡潔な文章で、一話ごとの登場人物が少なく、事前に抑えておかなければならない予備知識も特にない。新聞小説くらいの気軽さで読める。『西遊記』『水滸伝』『三国志演義』に比べると、はるかにとっつき易い。
ボルヘスは、“エドガー・アラン・ポーやホフマンとは違い、蒲松齢は自分が語る怪異に驚いてはいない。”と言う。“迷信深い性格を賦与された中国の人たちが、ともすればこれらの物語をあたかも現実のことであるかのように読みがちであった”とも言っている。
本書に収録された14編の中で、何度も「冥界と陽界は変わらない」という表現が出てくる。蒲松齢の描く冥界は、現世そのままの汚職役人の世界だ。それが、諧謔と諷刺と、逞しい想像力を織り込んだ、簡素で非個人的な報告的口調で綴られる。
賄賂で動く地獄の法官、試験勉強に苦しむ書生、老婆の元へ償いに通う虎、美女の皮を被って男を騙す鬼……幻想と現実とがシームレスに淡々と語られる物語群が面白くない訳がない。一話につき数ページという短さで、次々に新しい物語が現れるので、疲れを感じる間もなく読み耽ってしまえるのだ。素晴らしい庶民文学である。
蒲松齢は、進士の試験を何度も落第した秀才とは言い難い人物だった。妾の子であったため、生家での地位は低かった。生涯貧しさから抜け出すことはなかった。『聊斎志異』が刊行されたのは、彼の死後約半世紀も経ってからのことだった。
『聊斎志異』の親しみやすさや、簡素な文体ながらも豊かな視点などは、彼の不運な生涯に起因しているのかなと思ったりもした。
個人的には、「席方平(孝子入冥)」「単道士(幻術道士)」「郭秀才(魔術街道)」「趙城虎(猛虎贖罪)」「画皮(人皮女装)」あたりが特に面白かった。
「席方平(孝子入冥)」は、地獄で亡父が鬼卒達から不当な拷問を受けていることを知った孝行息子の席生が、地獄に赴き不正を訴える話だ。
鬼卒達は、席生の父と仲の悪かった羊某から賄賂を受け取っていたのだ。
地獄は席生が思っていた以上に腐敗した官僚社会だった。なんと城隍、郡司、冥王までもが賄賂を受け取っていて、席生は訴えを退けられた挙句、嘘の申し立てをしたとして苛烈な拷問を加えられてしまう。しかし、最後には冥王達より高位の玉帝によって、席親子は救われ、冥王達は懲らしめられるのである。
「単道士(幻術道士)」は、自由自在に姿を消すことの出来る道士の話。
単道士は、韓家の御曹司から法を伝授して欲しいと請われるが、悪用されるのを心配して断る。
腹を立てた御曹司は、下僕たちと図り、単道士を脱穀場に閉じ込め、打ち据えようとする。しかし、単道士は壁に城門の絵を描くと、それを押し開いて逃げてしまった。
私の年代だと道士と聞くとキョンシーを思い浮かべてしまうが、道家の幻術使いは、道教文化の中国では、日本の陰陽師並みに親しまれている存在なのかもしれない。ドラえもんの道具みたいな方法で空間移動出来るのが面白かった。
「郭秀才(魔術街道)」は、道に迷った若者が、魔物たちの酒宴に参加する話。
郭は友人宅から帰る途中、山中で迷ってしまう。
山の上からの笑い声につられて、急ぎ行ってみると、そこでは10人余りの者たちが酒盛りをしていた。道を尋ねた郭は、そんなことよりと盃を渡される。
冗談好きな郭が特技の鳥の鳴き真似をして見せると、それをたいそう気に入った一同から、お返しに肩乗りの術を披露される。一人が直立すると、もう一人がその肩の上に乗って直立する。これを10人余りの人物が続け、バタンと倒れると一条の道ができた。彼らと、「中秋の夜、またここで会おう」と約束した郭は、道に沿って家に辿り着くことが出来た。
しかし、中秋になったので、彼らに会いに行こうとしたら、友人たちに止められてしまった。
郭は約束を破った事を悔やむが、会いに行ったら彼らの仲間にされていたかもしれない。でも、冗談好きの郭ならそれも楽しめたかも?
「趙城虎(猛虎贖罪)」は、一人息子を虎に食い殺された老婆と、その虎の物語。
一人きりの倅を虎に食い殺された老婆が、知事に訴える。泣きわめく老婆に手を焼いた知事は、下端役人の李能に虎の捕縛を命じる。
杖刑を恐れた李能はしぶしぶ虎の捕縛に向かうが、案外物分かりのいい虎は、李能の説得に応じ、倅に代わり、身寄りの無くなった老婆の孝行に励み始める。
はじめは、虎を殺し倅の償いをさせるべきだと知事を恨んでいた老婆も、虎の孝養に感謝するようになる。虎も老婆に懐き、かくして人と獣が互いに気を許し、疑うことない仲になったのだった。
虎の方が、倅より稼ぎが良かったり、人情を理解していたりする描写にクスリとなる。老人と獣という取り合わせが醸し出すほのぼの感も良い。
「画皮(人皮女装)」は、美女の生皮を被った鬼に夫の心臓を抜かれて殺された妻が、夫を生き返らせる話。
王生という男が、親に売られそうになり逃げて来たという美少女をうちに連れ帰り、養うことにする。妻の陳氏は、御大家の妾かもしれないから出した方が良いと意見するが、王生はこれを無視した。
ある日、王生は道端で一人の道士から「あんたの体には邪気がまとわりついている。死が近い」と告げられる。王生は道士の言葉を信じなかったが、帰宅してから美少女の部屋を覗いてみたら、中では獰猛な青鬼が人皮を被って美少女に化けているところだった。
道士に助けを求めた王生は、道士から鬼除けの払子を授けられるが、結局、青鬼に内蔵を抜かれて殺されてしまう。
陳氏が、夫を蘇らせて欲しいと道士に頼むと、道士から死人を蘇らせることの出来る男を教えられる。その人物はたいそうな奇人変人だが、願いを聞いて欲しければ、決して逆らってはいけないという。
その男は、陳氏が想像していた以上に無礼だった。
陳氏は散々に侮辱され、男が吐いた拳大の痰の塊を飲み干せと命じられる。一切逆らわず痰を飲んだが、何も起こらないまま男は姿を消してしまう。
陳氏は屈辱に打ち震えながら帰宅すると、無残に切り裂かれた夫の遺体を清めようとする。すると、にわかに吐き気がこみ上げ、何かの塊を亡骸の腹腔の中に吐き出してしまう。
それは、温かく動く心臓だった。陳氏が夫を抱きしめると、夫の腹腔は塞がり、彼は生き返ったのだった。
『紅楼夢』については、ボルヘスは序文で、“(ロシア文学やアイルランドのサガをも凌ぐ登場人物の多さに)一見しただけで読者は意気銷沈させられてしまう”と述べている。
が、それはあまり読書習慣の無い者の気持ちを代弁しているのだけで、ボルヘス自身はこの3000ページを超える巨編を寧ろワクワクしながら読んだのではないかと思っている。
「夢のなかのドッペルゲンゲル」は、ボルヘスは『夢の本』でも、「宝玉の果てしない夢」というタイトルで取り上げていた。余程お気に入りの一編なのだろう。
このブログでも、『夢の本』の読書感想で既に取り上げているので詳しくは触れないが、円環の夢をテーマとしたこの掌編は、まるでボルヘス自身が書いた作品のようだと思った。