本書は、ボルヘス編集の“バベルの図書館” (全30巻)の24巻目にあたる。私にとっては最後の“バベルの図書館”の作品だ。
パピーニの『逃げてゆく鏡』から始めた “バベルの図書館”シリーズの読書感想もこの巻でとうとうお仕舞いだ。一年近く付き合ってきたシリーズなので名残惜しさも一入である。
同じ『千一夜』でも、先に読んだバートン版に比べると、教訓色が強いと言われるガラン版であるが、少なくとも本書に選ばれた「盲人ババ・アブダラの物語」と「アラジンの奇跡のランプ」の二編は、読む前に警戒していたような堅苦しい話ではなかった。
「アラジンの奇跡のランプ」は、童話やアニメなどで誰もが一度は触れたことのある『千一夜』の定番中の定番の作品である。が、なんと本作は原典には無いガランの創作なのだそうだ。本作をもってボルヘスは、“ガランは物語作者の大王朝の最後の生き残りということになるのかもしれない”と評している。
ボルヘスは、“(量の概念と質の概念は対立するものと考えられてきたが)ある種の書物の場合、長大であることがすなわち質に、それも本質的な質に転嫁することだってあるのだ”と述べ、そのような作品の一つに『千一夜』を挙げている。
『千一夜』は、王たちの栄耀栄華、女王や姫君たちの美貌、どんな願いも叶えてくれる万能の魔神、豪華絢爛な財宝などの記述を繰り返し繰り返し、それも繰り返すたびに過剰な装飾をもって表現することで筋立てを練り上げ、没個性的で長大な物語を構築している。物語の核はインドに端を発し、ペルシア→アラビア→エジプトへと伝播していくにつれて加速度的に増殖していったと考えられる。その無数の物語群の一端に、ガランは自身が創作した「アラジンの奇跡のランプ」をはめ込んだのだ。
上で、思ったより堅苦しい話ではなかったと述べたが、やはり、バートン版に比べると、ガラン版は教訓めいた節回しが多い。
「アラジンの奇跡のランプ」は、奇跡のランプに関する物語を終えるにあたり、シエラザードが登場人物たちの行動とそれが引き起こした結末について分別臭い口調で総括する。が、シエラザードの纏めのつまらなさからは推し量れないほど、この物語は度量が大きく生き生きとしているのだ。何でこんな面白い物語を語れる人物が、最後に湿気た説教節をつけ足してしまうのかちょっとよく分からない。
この最後の部分を除けば、「アラジンの奇跡のランプ」は、日本人の常識では不謹慎と思えるほど欲望に忠実な若者のトントン拍子な栄達の物語だ。夢と冒険の明るい部分が強調されたこの物語が子供たちに喜ばれるのはよく分かる(バートン版は子供に読ませられるような話ではないし)。しかし、私が子供の頃に読んだ魔法のランプの物語の主人公は、もう少しまともな若者だったような記憶があるのだが…。
中国のとある王国に、アラジンという、貧しい仕立て屋の一人息子がいた。
これが孝行の心を欠片も持ち合わせていない怠け者で、聞き分けも無ければ勤労意欲も無く、同じ年頃の若者がとうに職に就いているというのに、朝から晩まで遊び暮らしているのだった。父親は何とかしてアラジンに針仕事を仕込もうと努力をしたが、アラジンの態度は一向に改まらない。父親は心労が元で病気に罹り、そのまま息子の将来を悲観しながら亡くなってしまった。煩い父親がいなくなると、アラジンは母親のことを気にかけようとせず、すっかり遊惰な生活に入ってしまうのだった。
ある日、アラジンが広場で遊んでいると、アフリカから来たという魔術師が話しかけてきた。
この魔術師はアラジンの亡父の弟で、遠路遥々生き別れの兄に会いに来たのだと言う。兄の死を知って嘆き悲しんだ魔術師は、兄に代わって甥のアラジンを立派な商人にすると誓い、アラジンに金貨や美しい着物を与え、商人たちの集まりに連れて行き、商売を学ばせたり、顔を売らせたりした。アラジンは親切な魔術師に心酔する。最初のうちは訝しんでいた母親も、次第に夫の弟というこの男を信用するようになる。
アラジン母子の信頼を得た魔術師は、アラジンを町からはるか遠くまで連れ出す。
とある狭い谷に就くと、魔術師は態度を豹変させ、アラジンを暴力で脅しつけ奇妙な命令をするのだった。
実は、魔術師はアラジンの叔父でも何でも無かった。
魔術師は地下に封印されている魔法のランプを手に入れるために、アラジンを利用したのだ。魔術師はランプを手に入れたらアラジンを殺してしまうつもりで、彼にランプを手に入れるのに必要な魔法の指輪を貸し、地下に向かわせた。しかし、魔術師が思ったよりは愚かでなかったアラジンは、地下から引き揚げてもらうまではランプを渡さないと言う。誰かに言い争いを聞きつけられるのを恐れた魔術師は、アラジンの降りた入り口を封印すると、そのままアフリカに帰ってしまう。地下に残されたアラジンは、このままここで息絶えるのかと絶望する。
しかし、天はアラジンを見捨ててはいなかった。
魔術師がアラジンに貸したまま忘れていた指輪が、アラジンが天に向かって手を合わせたことでその力を発動する。魔法の力を知らないまま、アラジンが偶然指輪を擦ったことで、指輪の魔神が出現したのだ。
この後、指輪の魔神とランプの魔神の力によって望むままに富を得たアラジンは、絶世の美女バドルールブードール姫の夫の地位まで手に入れる。この間、アラジン自身は魔神に命令するだけで、特に何もしていない。姫君と結婚したいというサルタンへの嘆願でさえ、魔神が出した財宝を母親に持たせて行かせているのである。日本人的常識にとらわれている私は、魔神が恩義もないアラジンの願いを何でも叶えてあげるのに読んでいて不安になった。通常、この手の物語は、何か制約があるものではないか?例えば、お願いは三回までとか、強欲が過ぎると罰を受けるとか…。アラジンがそのうちしっぺ返しを食らうのではないかと冷や冷やし通しだったが、この物語ではそんなことは最後まで起こらなかった。
アラジンは終始一貫、自分の欲望の実現のためだけに魔神の力を利用している。
地下からの脱出から始まって、日々の生活費まで魔神に頼りきり。さらには姫君を手に入れるために、莫大な財宝や美しい奴隷たちを次々に出させ、宮殿まで建てさせてしまうのである。これで良いのかと疑問に思うが、これで良いらしい。ガラン自身の志向というより、『千一夜』の常識に合わせているように感じる。労せずして恋愛や栄耀栄華を掴むのが良いことというのがアラブ人の価値観なのだろうか。
シエラザードの言うことには、アフリカの魔術師は不正なやり方で財宝を所有したいという異常な欲望に身を任せたために、それを享受できなかった。が、アラジンは同じ財宝を自ら求めることなく、ただ定めた目的を達成するために必要に応じて用いたので出世することが出来た、ということだそうだ。……どっちも我欲という点は同じではないのか?
ちょっとピンとこないのだが、魔術師はランプを手に入れるためにアラジンを騙したのが悪いけど、アラジンは必要な時にしか魔神に頼っていないから悪くないということだろうか?でも、アラジンも、先に姫君と結婚していた宰相の息子を、魔神の力で酷い目に合わせて宮廷から追い出しているのだけど、それは良いの?
日本昔話だと、舌切り雀の婆さんなんか、ちょっと欲をかいただけで酷い目にあっているのに、スケールが違い過ぎて首を捻ってしまう。だが、恋や富を素直に求める大らかでハッピーな雰囲気は悪くないと思った。
パピーニの『逃げてゆく鏡』から始めた “バベルの図書館”シリーズの読書感想もこの巻でとうとうお仕舞いだ。一年近く付き合ってきたシリーズなので名残惜しさも一入である。
同じ『千一夜』でも、先に読んだバートン版に比べると、教訓色が強いと言われるガラン版であるが、少なくとも本書に選ばれた「盲人ババ・アブダラの物語」と「アラジンの奇跡のランプ」の二編は、読む前に警戒していたような堅苦しい話ではなかった。
「アラジンの奇跡のランプ」は、童話やアニメなどで誰もが一度は触れたことのある『千一夜』の定番中の定番の作品である。が、なんと本作は原典には無いガランの創作なのだそうだ。本作をもってボルヘスは、“ガランは物語作者の大王朝の最後の生き残りということになるのかもしれない”と評している。
ボルヘスは、“(量の概念と質の概念は対立するものと考えられてきたが)ある種の書物の場合、長大であることがすなわち質に、それも本質的な質に転嫁することだってあるのだ”と述べ、そのような作品の一つに『千一夜』を挙げている。
『千一夜』は、王たちの栄耀栄華、女王や姫君たちの美貌、どんな願いも叶えてくれる万能の魔神、豪華絢爛な財宝などの記述を繰り返し繰り返し、それも繰り返すたびに過剰な装飾をもって表現することで筋立てを練り上げ、没個性的で長大な物語を構築している。物語の核はインドに端を発し、ペルシア→アラビア→エジプトへと伝播していくにつれて加速度的に増殖していったと考えられる。その無数の物語群の一端に、ガランは自身が創作した「アラジンの奇跡のランプ」をはめ込んだのだ。
上で、思ったより堅苦しい話ではなかったと述べたが、やはり、バートン版に比べると、ガラン版は教訓めいた節回しが多い。
「アラジンの奇跡のランプ」は、奇跡のランプに関する物語を終えるにあたり、シエラザードが登場人物たちの行動とそれが引き起こした結末について分別臭い口調で総括する。が、シエラザードの纏めのつまらなさからは推し量れないほど、この物語は度量が大きく生き生きとしているのだ。何でこんな面白い物語を語れる人物が、最後に湿気た説教節をつけ足してしまうのかちょっとよく分からない。
この最後の部分を除けば、「アラジンの奇跡のランプ」は、日本人の常識では不謹慎と思えるほど欲望に忠実な若者のトントン拍子な栄達の物語だ。夢と冒険の明るい部分が強調されたこの物語が子供たちに喜ばれるのはよく分かる(バートン版は子供に読ませられるような話ではないし)。しかし、私が子供の頃に読んだ魔法のランプの物語の主人公は、もう少しまともな若者だったような記憶があるのだが…。
中国のとある王国に、アラジンという、貧しい仕立て屋の一人息子がいた。
これが孝行の心を欠片も持ち合わせていない怠け者で、聞き分けも無ければ勤労意欲も無く、同じ年頃の若者がとうに職に就いているというのに、朝から晩まで遊び暮らしているのだった。父親は何とかしてアラジンに針仕事を仕込もうと努力をしたが、アラジンの態度は一向に改まらない。父親は心労が元で病気に罹り、そのまま息子の将来を悲観しながら亡くなってしまった。煩い父親がいなくなると、アラジンは母親のことを気にかけようとせず、すっかり遊惰な生活に入ってしまうのだった。
ある日、アラジンが広場で遊んでいると、アフリカから来たという魔術師が話しかけてきた。
この魔術師はアラジンの亡父の弟で、遠路遥々生き別れの兄に会いに来たのだと言う。兄の死を知って嘆き悲しんだ魔術師は、兄に代わって甥のアラジンを立派な商人にすると誓い、アラジンに金貨や美しい着物を与え、商人たちの集まりに連れて行き、商売を学ばせたり、顔を売らせたりした。アラジンは親切な魔術師に心酔する。最初のうちは訝しんでいた母親も、次第に夫の弟というこの男を信用するようになる。
アラジン母子の信頼を得た魔術師は、アラジンを町からはるか遠くまで連れ出す。
とある狭い谷に就くと、魔術師は態度を豹変させ、アラジンを暴力で脅しつけ奇妙な命令をするのだった。
実は、魔術師はアラジンの叔父でも何でも無かった。
魔術師は地下に封印されている魔法のランプを手に入れるために、アラジンを利用したのだ。魔術師はランプを手に入れたらアラジンを殺してしまうつもりで、彼にランプを手に入れるのに必要な魔法の指輪を貸し、地下に向かわせた。しかし、魔術師が思ったよりは愚かでなかったアラジンは、地下から引き揚げてもらうまではランプを渡さないと言う。誰かに言い争いを聞きつけられるのを恐れた魔術師は、アラジンの降りた入り口を封印すると、そのままアフリカに帰ってしまう。地下に残されたアラジンは、このままここで息絶えるのかと絶望する。
しかし、天はアラジンを見捨ててはいなかった。
魔術師がアラジンに貸したまま忘れていた指輪が、アラジンが天に向かって手を合わせたことでその力を発動する。魔法の力を知らないまま、アラジンが偶然指輪を擦ったことで、指輪の魔神が出現したのだ。
この後、指輪の魔神とランプの魔神の力によって望むままに富を得たアラジンは、絶世の美女バドルールブードール姫の夫の地位まで手に入れる。この間、アラジン自身は魔神に命令するだけで、特に何もしていない。姫君と結婚したいというサルタンへの嘆願でさえ、魔神が出した財宝を母親に持たせて行かせているのである。日本人的常識にとらわれている私は、魔神が恩義もないアラジンの願いを何でも叶えてあげるのに読んでいて不安になった。通常、この手の物語は、何か制約があるものではないか?例えば、お願いは三回までとか、強欲が過ぎると罰を受けるとか…。アラジンがそのうちしっぺ返しを食らうのではないかと冷や冷やし通しだったが、この物語ではそんなことは最後まで起こらなかった。
アラジンは終始一貫、自分の欲望の実現のためだけに魔神の力を利用している。
地下からの脱出から始まって、日々の生活費まで魔神に頼りきり。さらには姫君を手に入れるために、莫大な財宝や美しい奴隷たちを次々に出させ、宮殿まで建てさせてしまうのである。これで良いのかと疑問に思うが、これで良いらしい。ガラン自身の志向というより、『千一夜』の常識に合わせているように感じる。労せずして恋愛や栄耀栄華を掴むのが良いことというのがアラブ人の価値観なのだろうか。
シエラザードの言うことには、アフリカの魔術師は不正なやり方で財宝を所有したいという異常な欲望に身を任せたために、それを享受できなかった。が、アラジンは同じ財宝を自ら求めることなく、ただ定めた目的を達成するために必要に応じて用いたので出世することが出来た、ということだそうだ。……どっちも我欲という点は同じではないのか?
ちょっとピンとこないのだが、魔術師はランプを手に入れるためにアラジンを騙したのが悪いけど、アラジンは必要な時にしか魔神に頼っていないから悪くないということだろうか?でも、アラジンも、先に姫君と結婚していた宰相の息子を、魔神の力で酷い目に合わせて宮廷から追い出しているのだけど、それは良いの?
日本昔話だと、舌切り雀の婆さんなんか、ちょっと欲をかいただけで酷い目にあっているのに、スケールが違い過ぎて首を捻ってしまう。だが、恋や富を素直に求める大らかでハッピーな雰囲気は悪くないと思った。