和田博文編『石の文学館』
サブタイトルは、〔石の眠り、砂の思考〕
石に纏わる38編の短編小説・詩・エッセイなどが、7章に分けられて収録されている。
石が出てくる作品ならジャンルに拘りは無いようなので、作家の顔ぶれがごった煮になっているのが面白い。稲垣足穂と森瑤子が一緒に収録されているアンソロジーなんて他にあるだろうか。
個人的に花丸だったのが、第一章の稲垣足穂「水晶物語」、高原英里「星水晶」、高柳誠「水晶宮」。第二章の椿實「石の中の鳥」、澁澤龍彦「石の夢」、種村季弘「聖女の宝石函」。第六章の山尾悠子「夜の宮殿と輝くまひるの塔」、田久保英夫「静か石」。
高柳誠、椿實、田久保英夫の作品を読むのは今回が初めてだったので、彼らの他の作品も読んでみたい。未知の作家との出会えるのもアンソロジーの良いところだ。
高柳誠「水晶宮」
水晶宮の調査報告書のような短編。
水晶宮という架空の存在をきっぱりと簡潔な文体で見てきたように描写しているので、読んでいるこちらも見てきたように想像できる。
人類の誕生よりはるか前から存在し、人類の滅亡の後も果てしなく続く、その青く輝く空間は、不滅であるが故に、既に滅びた世界のように静謐な郷愁を漂わせている。
内部が即外部である世界、それが水晶宮の基本構造だ。
水晶宮は信じる者の数だけ存在する。
ただし、信じている人がそこの住人になることは出来ない。水晶宮の入り口はどこにでもあるが、誰もその存在に気が付かないのだ。
水晶宮の住人が、自分たちの住む場所が水晶宮であることを理解することは永遠にない。この相互不可侵性、永久の閉鎖性によって水晶宮は今までもこれからも存在していく。
水晶宮はもう一つ大きな水晶宮の中に存在する。
そして、水晶宮の中には、水晶宮そのままのミニチュアが収められている。つまり水晶宮は、極小から極大への宇宙の生成物の構造と正確に呼応している。
水晶宮は同一時刻にどこにでも存在でき、瞬時にどんな長距離でも移動できる。
現実的な時間の感覚からすると、相対的に見て水晶宮の中で時間はまったく流れないに等しい。
水晶宮では太陽も月も星もすべてその内部に存在する。
故に水晶宮は宇宙そのものということも可能だが、単なるプラネタリウムに過ぎないとの見方もできる。
水晶宮の中央の一室には水晶球が安置されており、その球体はあらゆる複合世界を反映している。
したがってその球には、世界・宇宙が距離感を失ってベタ一面に存在している。球の内部世界では、時間は喪失され歴史的遠近も全く無視されている。
水晶宮の住人は男でも女でもない生殖不能の生物だ。
彼らは老人であって同時に少年少女でもある。彼らはすべて透明な皮膚を持ち、その内臓は様々な宝石の色を帯びて煌めいている。
だが、実際に水晶宮に行って戻ってきた者の存在が確認できない以上、これらの報告(?)の信憑性を保証できるものは何もない。
水晶宮はあらゆる定義づけを拒絶し、ただ断片としてのみ存在する。
その永遠に閉じられた無限の入れ子細工の世界の中に、同じ人物が無限に存在する。
そこは私が私であると同時にあなたでもある世界。
彼女が私にも彼にもなり得る、つまり誰にもなり得ない非人格の世界なのだ。すべての水晶宮の住人は、一人の人物の姿が乱反射する鏡像にすぎないのかもしれない。
澁澤龍彦「石の夢」
プリニウス、キルヒャー、アルドロヴァンデイらの著作を引用しながら、古今東西の奇石にまつわるエピソード、そこに込められた夢想を解きほぐしていくエッセイ。
“石は作品ではないのである。石は芸術の対象ではなくて、おそらく魔術の対象なのである。それ故にこそ、石はさまざまな形態の伝説を生み、伝説はただちに形而上学に結びつくのであろう。”
「絵のある石」とは、石の表面や断面に現れる模様が、アポロン、ミューズ、キリスト、あるいは動植物などの絵のように見えることからそう呼ばれている。
表面・断面と言っても、もとは石の誕生とともに石の内部に封じ込められ隠されていた形象が、人間の手で切断されるか磨かれるかして偶然に表面に浮かび上がってきたものだ。
偶然によって日の目を見たそれは奇跡と呼ばれ、ひとたび奇跡と認識されるや人々の想像力を固定させてしまう。
澁澤はそれをロールシャッハ・テストの図形が、ひとたび「花」と知覚されると、それ以降その図形が「花」以外の何物にも見えなくなるようなものだと述べながらも、無意味な形象が夢の世界の扉をひらくと続けている。この開かれた扉の先に展開する人間の想像力、いわば「類推の魔」こそが、澁澤の興味の対象であり、このエッセイの面白みなのだ。
中世ヨーロッパの自然科学的な考え方では、石や鉱物は生きているので、地下で成長したり、病気になったり、老衰したり、死んだりする。だから星の影響も受けるし、周囲の土壌の影響も受ける。
キルヒャーは著書『地下世界』で、「絵のある石」の形成される四つの作用を説明する。
その1は「偶然」であり、その2は「土地が母体となって石化を促す作用」であり、その3は「相似の形態を固める磁気作用」であり、その4は「神聖な天の作用」である。
キルヒャーの説明によると、植物と石は同じ土地から生ずるので、彼らの本質は互いに混じり合っている。蘚苔類が鉱物の内部に侵入し、石のような草や果物に変化したり、灌木や水晶や大理石の内部で花を咲かせたりする。
神々やキリストなど聖なるものの像も、同じように形成される。
例えば地中に残された祭具や十字架が、時を経て土に痕跡を残す。二枚の大理石の間に挟まり込んだ物体は、やがてその形を大理石の内部に浸透させる。
それらが切断されるか磨かれるかして表面に現れたものが、「絵のある石」なのだ。
しかし、こうした直接的な原因も、神の摂理なしでは良い結果を生じない。自然界に奇跡をもたらすのは、常に神の摂理だ。石の中に形が生じるのも、天空に星が生じるのも、神の力に支配された結果なのである。
現代人が聴くと、マジカル過ぎてどこが自然科学なのだという論説であるが、中世の自然哲学とは多かれ少なかれ錬金術的発想を下地にしているものらしい。
「石の夢」とは、人間が石に見た、崇拝、憧憬、思慕、郷愁なのではないか。
古来より、人間が石に託してきた夢想のいかに大きく、いかに偏寄を極めていることか。
石の内部に何か神聖なものが取り込まれているという感覚は、古今東西、人類共通のものなのだろう。時代の変遷とともに宗教観や美意識は変わっても、石は常に折口信夫のいう「神の容れ物としての石」だ。
石を巡る澁澤のペンは、最後に内部が空洞になっている石に辿り着く。
ロジェ・カイヨワの『石』に、内部に水が溜まっている奇妙な石が取り上げられている。
“程よい大きさの瑪瑙の団塊を手で持ちあげてみると、時に異常に軽く思われることがある。それで、その内部が中空になっていて、水が入っていることが分る。耳の近くで振ってみると、ごく稀にではあるが、内壁にぶつかる液体の音が聞こえる。たしかに、そこには水が棲んでいるのであり、水は地球の揺籃期からずっと、石の牢獄に閉じこめられたままでいるわけなのだ。この大昔の水を見たいと思う気持ちが生ずる。”
澁澤はその石に対して以下のような感想を持つ。
“たしかに、その水は地球の発達の歴史を知らず、天水を通じて循環することを知らず、溶けた鉱物が固結する過程に、ふと落ちこんだ空洞のなかに捕らえられたまま、二度とふたたび出ることができなくなってしまったという、いわば童話の「塔に閉じこめられた姫君」のような処女の水ではないだろうか。”
内部に液体を封じ込めたその石は、母胎、生命の揺籃を連想させる。或いは生命が尽きた亡骸が最期に安らぐ棺。
では、そこに閉じこめられた処女の水は、永遠に生まれることのない胎児か、永遠に昇天することのない死者の魂なのだろうか。どこにも飛び立てないそれは、石に抱かれて醒めない夢を見続ける。
サブタイトルは、〔石の眠り、砂の思考〕
石に纏わる38編の短編小説・詩・エッセイなどが、7章に分けられて収録されている。
石が出てくる作品ならジャンルに拘りは無いようなので、作家の顔ぶれがごった煮になっているのが面白い。稲垣足穂と森瑤子が一緒に収録されているアンソロジーなんて他にあるだろうか。
個人的に花丸だったのが、第一章の稲垣足穂「水晶物語」、高原英里「星水晶」、高柳誠「水晶宮」。第二章の椿實「石の中の鳥」、澁澤龍彦「石の夢」、種村季弘「聖女の宝石函」。第六章の山尾悠子「夜の宮殿と輝くまひるの塔」、田久保英夫「静か石」。
高柳誠、椿實、田久保英夫の作品を読むのは今回が初めてだったので、彼らの他の作品も読んでみたい。未知の作家との出会えるのもアンソロジーの良いところだ。
高柳誠「水晶宮」
水晶宮の調査報告書のような短編。
水晶宮という架空の存在をきっぱりと簡潔な文体で見てきたように描写しているので、読んでいるこちらも見てきたように想像できる。
人類の誕生よりはるか前から存在し、人類の滅亡の後も果てしなく続く、その青く輝く空間は、不滅であるが故に、既に滅びた世界のように静謐な郷愁を漂わせている。
内部が即外部である世界、それが水晶宮の基本構造だ。
水晶宮は信じる者の数だけ存在する。
ただし、信じている人がそこの住人になることは出来ない。水晶宮の入り口はどこにでもあるが、誰もその存在に気が付かないのだ。
水晶宮の住人が、自分たちの住む場所が水晶宮であることを理解することは永遠にない。この相互不可侵性、永久の閉鎖性によって水晶宮は今までもこれからも存在していく。
水晶宮はもう一つ大きな水晶宮の中に存在する。
そして、水晶宮の中には、水晶宮そのままのミニチュアが収められている。つまり水晶宮は、極小から極大への宇宙の生成物の構造と正確に呼応している。
水晶宮は同一時刻にどこにでも存在でき、瞬時にどんな長距離でも移動できる。
現実的な時間の感覚からすると、相対的に見て水晶宮の中で時間はまったく流れないに等しい。
水晶宮では太陽も月も星もすべてその内部に存在する。
故に水晶宮は宇宙そのものということも可能だが、単なるプラネタリウムに過ぎないとの見方もできる。
水晶宮の中央の一室には水晶球が安置されており、その球体はあらゆる複合世界を反映している。
したがってその球には、世界・宇宙が距離感を失ってベタ一面に存在している。球の内部世界では、時間は喪失され歴史的遠近も全く無視されている。
水晶宮の住人は男でも女でもない生殖不能の生物だ。
彼らは老人であって同時に少年少女でもある。彼らはすべて透明な皮膚を持ち、その内臓は様々な宝石の色を帯びて煌めいている。
だが、実際に水晶宮に行って戻ってきた者の存在が確認できない以上、これらの報告(?)の信憑性を保証できるものは何もない。
水晶宮はあらゆる定義づけを拒絶し、ただ断片としてのみ存在する。
その永遠に閉じられた無限の入れ子細工の世界の中に、同じ人物が無限に存在する。
そこは私が私であると同時にあなたでもある世界。
彼女が私にも彼にもなり得る、つまり誰にもなり得ない非人格の世界なのだ。すべての水晶宮の住人は、一人の人物の姿が乱反射する鏡像にすぎないのかもしれない。
澁澤龍彦「石の夢」
プリニウス、キルヒャー、アルドロヴァンデイらの著作を引用しながら、古今東西の奇石にまつわるエピソード、そこに込められた夢想を解きほぐしていくエッセイ。
“石は作品ではないのである。石は芸術の対象ではなくて、おそらく魔術の対象なのである。それ故にこそ、石はさまざまな形態の伝説を生み、伝説はただちに形而上学に結びつくのであろう。”
「絵のある石」とは、石の表面や断面に現れる模様が、アポロン、ミューズ、キリスト、あるいは動植物などの絵のように見えることからそう呼ばれている。
表面・断面と言っても、もとは石の誕生とともに石の内部に封じ込められ隠されていた形象が、人間の手で切断されるか磨かれるかして偶然に表面に浮かび上がってきたものだ。
偶然によって日の目を見たそれは奇跡と呼ばれ、ひとたび奇跡と認識されるや人々の想像力を固定させてしまう。
澁澤はそれをロールシャッハ・テストの図形が、ひとたび「花」と知覚されると、それ以降その図形が「花」以外の何物にも見えなくなるようなものだと述べながらも、無意味な形象が夢の世界の扉をひらくと続けている。この開かれた扉の先に展開する人間の想像力、いわば「類推の魔」こそが、澁澤の興味の対象であり、このエッセイの面白みなのだ。
中世ヨーロッパの自然科学的な考え方では、石や鉱物は生きているので、地下で成長したり、病気になったり、老衰したり、死んだりする。だから星の影響も受けるし、周囲の土壌の影響も受ける。
キルヒャーは著書『地下世界』で、「絵のある石」の形成される四つの作用を説明する。
その1は「偶然」であり、その2は「土地が母体となって石化を促す作用」であり、その3は「相似の形態を固める磁気作用」であり、その4は「神聖な天の作用」である。
キルヒャーの説明によると、植物と石は同じ土地から生ずるので、彼らの本質は互いに混じり合っている。蘚苔類が鉱物の内部に侵入し、石のような草や果物に変化したり、灌木や水晶や大理石の内部で花を咲かせたりする。
神々やキリストなど聖なるものの像も、同じように形成される。
例えば地中に残された祭具や十字架が、時を経て土に痕跡を残す。二枚の大理石の間に挟まり込んだ物体は、やがてその形を大理石の内部に浸透させる。
それらが切断されるか磨かれるかして表面に現れたものが、「絵のある石」なのだ。
しかし、こうした直接的な原因も、神の摂理なしでは良い結果を生じない。自然界に奇跡をもたらすのは、常に神の摂理だ。石の中に形が生じるのも、天空に星が生じるのも、神の力に支配された結果なのである。
現代人が聴くと、マジカル過ぎてどこが自然科学なのだという論説であるが、中世の自然哲学とは多かれ少なかれ錬金術的発想を下地にしているものらしい。
「石の夢」とは、人間が石に見た、崇拝、憧憬、思慕、郷愁なのではないか。
古来より、人間が石に託してきた夢想のいかに大きく、いかに偏寄を極めていることか。
石の内部に何か神聖なものが取り込まれているという感覚は、古今東西、人類共通のものなのだろう。時代の変遷とともに宗教観や美意識は変わっても、石は常に折口信夫のいう「神の容れ物としての石」だ。
石を巡る澁澤のペンは、最後に内部が空洞になっている石に辿り着く。
ロジェ・カイヨワの『石』に、内部に水が溜まっている奇妙な石が取り上げられている。
“程よい大きさの瑪瑙の団塊を手で持ちあげてみると、時に異常に軽く思われることがある。それで、その内部が中空になっていて、水が入っていることが分る。耳の近くで振ってみると、ごく稀にではあるが、内壁にぶつかる液体の音が聞こえる。たしかに、そこには水が棲んでいるのであり、水は地球の揺籃期からずっと、石の牢獄に閉じこめられたままでいるわけなのだ。この大昔の水を見たいと思う気持ちが生ずる。”
澁澤はその石に対して以下のような感想を持つ。
“たしかに、その水は地球の発達の歴史を知らず、天水を通じて循環することを知らず、溶けた鉱物が固結する過程に、ふと落ちこんだ空洞のなかに捕らえられたまま、二度とふたたび出ることができなくなってしまったという、いわば童話の「塔に閉じこめられた姫君」のような処女の水ではないだろうか。”
内部に液体を封じ込めたその石は、母胎、生命の揺籃を連想させる。或いは生命が尽きた亡骸が最期に安らぐ棺。
では、そこに閉じこめられた処女の水は、永遠に生まれることのない胎児か、永遠に昇天することのない死者の魂なのだろうか。どこにも飛び立てないそれは、石に抱かれて醒めない夢を見続ける。