青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

禿鷹

2019-11-11 07:34:18 | 日記
カフカ著『禿鷹』には、ボルヘスによる序文と、「禿鷹」「断食芸人」「最初の悩み」「雑種」「町の紋章」「プロメテウス」「よくある混乱」「ジャッカルとアラビア人」「十一人の息子」「ある学会報告」「万里の長城」の11編が収録されている。

本書はボルヘス編集の“バベルの図書館”の4巻目にあたる。私にとっては27冊目の“バベルの図書館”の作品だ。

カフカは『変身』と『城』くらいしかまともに読んだことがないと思う。
訳者の池内紀氏が、付録の「ふたたび、野心家カフカ」で、“もつれにもつれた糸をほどいて、また一段ともつれさせるたぐいのカフカ解釈はもう沢山だ”と述べている。
私はこれまでカフカの作品そのものより、この手の解釈論争が苦手でカフカから距離を置いてきた。「ふたたび、野心家カフカ」で例に挙げられている研究者たちの「雑種」の解釈なんかまさにそうで、言い方は悪いが個人的な感想の域を出ていないと思うのだ。カフカの作品からその人たちに都合の良いパーツを摘まんで、見たいようなカフカ像を組み立てているだけではないか。カフカの作品は心理描写が削ぎ落とされている分、読み手の願望を差し挿める隙間が多いのだろう。深読みしようと思えば、無限に深読み出来るのだ。その深読み合戦は、外野から見ていると大変疲れる。

池内氏は、マックス・ブロートが作り出そうとしたカフカ像に疑問符を投げかけている。
ブロートが世間一般に見せたがっているカフカ像〈孤独に書いて、ひっそりと死んでいった聖なる人物。死後に始まった名声に誰よりも驚いているカフカ〉は、私の好みではないので、池内氏のいう〈野心家カフカ〉に与したくなる。が、カフカ本人がそのあたりについて明言していない以上は、私もまた、見たいようにカフカを見ているだけなのだ。

カフカが死の床で友人ブロートに作品一切の焼却を依頼した、というエピソードはあまりにも有名だが、その事実から何を読み取るかも人それぞれだ。
ボルヘスは序文の冒頭で、ウェルギリウスが臨終の際に友人たちに『アエネーイス』の未完の草稿を焼却してくれるよう頼んだという逸話を挙げ、“ウェルギリウスが友人たちの情け深い不服従を、カフカがブロートのそれを、当てにしていることを自覚していなかったはずがない”と、述べている。つまりは、カフカが自作の破棄を本気で望んでいた訳ではないということだ。ボルヘスの考えるカフカ像は、どちらかといえば池内氏寄りのようだ。

真実のカフカ像とか、原稿焼却依頼の本当の意図とかは、永遠に正解の出ない謎なので、この辺で話を変える。
ボルヘスは、カフカの作品は、「服従」と「無限」という二つの強迫観念に支配されているという。
カフカの作品の殆どすべてに位階制というものがあり、それらは無限に続いている。位階制への服従に基づき、目的への到達・達成は無限に遅延される。ボルヘスは、本書収録の「万里の長城」について、“無限は幾重にも輻輳していて、無限に遠い辺境の軍の行路を阻むために、時間的にも空間的にも遠い存在である皇帝が、無限に続く世代に対して、彼の無限に広大な帝国を囲み込む無限の城砦を無限に積み上げるよう命じるのである”と述べている。茫洋と掴みどころのない、感想を纏め難い作風だ。
無限に遠ざかっていく結果に対して、原因の扱いはどうだろう。
カフカの作品の殆どが、登場人物が尋常でない状況に置かれているところから始まるが、何でそんな事になったのかの明確な説明はされない。入り口も出口も曖昧な迷宮、それがカフカの世界だ。

ボルヘスは、“(カフカの作品において)肝心なのはプロットと環境であり、寓話の展開でも心理的洞察でもない。だからこそ彼の短編物語のほうが彼の小説よりも優れているのであり、だからこそこの短編選集はかくも特異な作家のスケールを十全に示していると断言する正当性がある”と結論付けている。


「禿鷹」は、語り手が生きながら禿鷹に肉体を抉られ続けている場面から始まる。

通りかかった紳士に、なぜ我慢しているのかと問われば、語り手は、「仕方がないではありませんか」と答える。最期に、禿鷹の嘴に喉を深く抉られた語り手は、どっと血を吹き出しながら仰向けに倒れる。溢れる血の中で禿鷹が溺れていく。

“それをみて私はほっと安堵した。”

現実とは、悪夢を絶えず提供し続けるものだと考えているカフカには、語り手が救済される姿を描くことができない。彼の誠実さが、この結末以外を許なかったのだろう。


「断食芸人」は、かつてはヨーロッパ中で人気を博した断食芸人の話。

断食などという芸の無い芸が大当たりする社会って、どんなのなのと思う。檻に閉じ込められた状態で、40日間断食する。それだけである。何がウケたのかはよく分からないが、時勢は変わり、断食芸人の檻の前に人々が群がっていた日々は遠い昔の話になった。
年老い、落ちぶれた断食芸人は、サーカスの動物小屋の隅に檻を置いてもらうことになる。断食芸人の檻は、動物を見に来た客達の移動の邪魔にしかならない。しかし、誰も見る者の無い中、断食芸人は全力を尽くして断食を続け、この上なく見事にやってのけた。そこに何の意味があったのだろう。サーカスの監督の問いに、断食芸人はこう答えた。

“断食せずにいられなかっただけのこと。ほかに仕様がなかったもんでね”

“自分にあった食べものを見つけることができなかった。もし見つけていれば、こんな見世物をすることもなく、みなさん方と同じように、たらふく食べていたでしょうね”

断食芸人が息絶えると、彼の亡骸は速やかに藁くずと一緒に葬られた。
断食芸人の入っていた檻には、一匹の精悍な豹が入れられた。生きのいい豹の姿は多くの見物客を引き寄せ、檻は本来の使われ方を取り戻したのだった。


「町の紋章」は、無限に遅延し続けるバベルの塔の建設の話。

僅か2ページの掌編の中に、人類の駄目なところが粗方詰め込まれていて憂鬱になる。
この手の遅延は現実社会にもよくあることなのだが、人類が人類である限り、それが改善されることはないのだろう。
人類がバベルの塔の完成を見る日は、多分永遠に来ない。だからと言って、人々が何かアクションを起こす気配はない。届かない、伝わらない、辿り着けない、完成しない、そして、そのことについて、何も説明しない、何も起こらないのが、カフカの作風なのだ。カフカの作品においては、障害はプロットを作るためのものではなく、障害そのものが作品の本質なので、障害から何かが起きるはずもないのである。
が、この町に生まれた伝説や唄は、どれといわず、予言に語られる日を待ち焦がれている。それは、巨大な拳が現れて町を打ち、木っ端みじんにしてしまうという予言だ。そんな訳で、この町の紋章には一つの握り拳が描かれているのだ。


「プロメテウス」は、プロメテウスに纏わる四つの言い伝えについて。

“言い伝えは不可解なものを解きあかそうとつとめるだろう。だが、真理をおびて始まるものは、しょせんは不可解なものとして終わらなくてはならないのだ。”

これからカフカを読もうという人は、この「プロメテウス」を始めに読むべきなのだろう。そして、カフカを何度も読んでいる人も、折に触れて「プロメテウス」を思い出すべきなのだろう。カフカに関するこんがらがった解釈なんて、神々も鷲もきっと飽き飽きしていることだろうから。
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犬の枕と猫の足台

2019-11-08 07:39:53 | 日記

我が家の年長コンビ、凜と桜。二匹がソファを占拠していることが多いので、私はだいたい床に座っています。
桜は凜が大好きで、いつも凜のそばに居たがります。私と凜が遊んでいると、凜の斜め後ろに来て、そっと座って見守っているのがいじらしいです。


蓬が割り込んできました。




同じような構図ですが、別の日に撮った写真です。
凜と桜はこの配置が多いですね。犬は信頼している相手にお尻を向けるそうですよ。


お腹が温い。


お布団ではだいたい縦列。本日も桜のお尻が凜の枕です。これには信頼の有無は関係無さそうです。


お返しに(?)、桜が凜の頭に足を乗せました。気を許し合った仲ってことでしょうかね。


凜は固いところに顔を押し付けて寝るのも好きです。


だんだんずりこけて行って、


頭を床と棚の扉の隙間に押し込んでいました。


蓬も隙間に嵌るのが好き。
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盗まれた手紙

2019-11-05 07:28:24 | 日記
ポー著『盗まれた手紙』には、ボルヘスによる序文と、「盗まれた手紙」「壜のなかの手記」「ヴァルドマル氏の病症の真相」「群衆の人」「落とし穴と振り子」の五編が収録されている。

本書は、ボルヘス編集の“バベルの図書館” (全30巻)の11巻目にあたる。私にとっては26冊目の“バベルの図書館”の作品である。

ボルヘスは序文の頭で以下のような指摘をしている。

“ある作家の書かれた著作に、われわれはしばしばもう一つ、おそらくさらに重要なものを付け加える必要がある。すなわちその作家について幾世代にもわたるイメージを、である。例えば、人間バイロンのほうがバイロンの作品よりさらに不朽であり、もっと生き生きとしているし、人間エドガー・アラン・ポーのほうが、彼の書いたどのページよりも、そしてそれらのページの総和さえよりも、もっと明確な存在となっているのである。”

その人の作品を一つも読んでなくても、その人の生涯を凡そイメージすることができる。さらには、読者の悲劇趣味とか、感傷とか、ロマンティシズムとかを投影することができる、そんな存在。
作品の総体よりも、それらを生み出した作家本人についてのイメージの方が広く長く受け継がれてしまうという現象は、作家にとってはあまり嬉しいことではないのかもしれない。

ポーの人生には読者の妄想を掻き立ててやまない要素がいくつもあるが、ポー自身がそれらを直接題材にした作品を書いたことは一度もなかった。勿論、人間の脳髄が生み出した作品であるから、本人の実生活から全く影響を受けていないわけはない。しかし、そこにポーの人生への過度な思い入れを押し込めて作品を読むのは、ポーの創作流儀に反する読み方であるような気がする。
ポーだけでなく、バイロン、ベックフォード、リラダン、ダンセイニ卿、ワイルドなど伝説的な生き方をした作家ほど、自身の実体験に頼らない作品を書いているのは興味深くはあるが。

ボルヘスは、“悪夢という言葉がポーの物語のほとんどすべてに適用できる”と述べている。
本巻には、探偵小説「盗まれた手紙」と四つの幻想小説が選ばれている。より悪夢の要素が強いのは、言うまでもなく後者四作品であるが、ポーが探偵小説というジャンルの開祖(『モルグ街の殺人』)であることを考えれば、「盗まれた手紙」を無視するわけにはいかない。


「盗まれた手紙」は、「モルグ街の殺人」「マリー・ロジェの謎」に続き、C・オーギュスト・デュパンを探偵役とするシリーズの三作目にあたる。

“推理者の知性を相手の知性に合わせる、ということだよ。”

デュパンの元に、パリ警察の警視総監G**氏が、事件の相談を持ち掛けてくる。
ある極め付きの重要書類が盗まれた。盗んだ人物は分かっている。書類がまだその人物の手元にあることも分かっている。また、被害者は犯人が誰なのか分かっているということを犯人は知っている、ということも分かっている。
被害者の貴婦人は、王宮の婦人用私室に一人きりの時にその手紙を受け取り、その同じ場所でD**大臣に盗まれたのだという。しかし、D**大臣の屋敷を家宅捜索しても、彼の身体検査をしても、手紙は出てこなかった。
D**大臣は、詩人であり、数学者でもある。さらには、ある陰謀に加担しているという噂もあるアクの強い人物である。彼は何のために手紙を盗み、どこに隠しているのか――。

推理者が容疑者の思考・行動を探るためには、まず、相手の知性のレベルを知らなければならない。自分の尺度で考えてはいけない。自分の知性を相手の知性のレベルに合わせるのだ。相手より上でも下でも、真実を読み違えてしまう。この推理の基本は、アーサー・コナン・ドイルが名探偵の代表格シャーロック・ホームズに同じ意味のセリフを言わせている。また、デュパンの長弁舌な衒学趣味は、小栗虫太郎の名探偵・法水麟太郎にも受け継がれている。
推理小説にあまり親しんでこなかった私にも、デュパンから影響を受けたと思われる探偵シリーズを二つ思い浮かべることができた。推理小説愛好家なら、きっともっとたくさんの名探偵の名前が浮かぶことだろう。


「ヴァルドマル氏の病症の真相」は、瀕死の病人を被験者としたある催眠術の実験。本巻の中では、この作品が一番面白かった。

実験に参加した催眠術師の報告によると、実験は、第一に、瀕死の状態にある患者に果たして催眠術がかかるのか、第二に、仮にかかるとしても、それは瀕死の状態によって効き目が変わるのか、第三に、催眠術をかけることによって、「死」の侵入をどの程度まで、あるいはどれくらいの期間抑えることができるのか、の三つの問題を確かめるために行われたのだという。

被験者に選ばれたのは、アーネスト・ヴァルドマル氏。
邪魔立てする親族が一人もおらず、本人も実験に強い興味を持っていて、いつ死をもって終わりを告げるかということに関して正確に予測できる病気に罹っているという、実験材料にうってつけの人物だった。

報告より七ヵ月前、報告者はヴァルドマル氏から、明日の真夜中までは持つまいという走り書きを受け取る。
それから15分後には、報告者はヴァルドマル氏に病室にいた。
報告者は、ベッドの傍らに付き添っているD**とF**の両医師から病人の容態の詳細な説明を受け、ヴァルドマル氏の意思を確認すると、催眠術の実験を開始する。

催眠術をかけられたヴァルドマル氏は、報告者の質問に対して、自分が死に至る過程のどの段階にいるのかを語りだす。
「痛みはない――死にかけているんだ」から始まり、「まだ眠っている――死ぬところだ」へ続き、「うん――いや――眠っていた――だがいまは――死んでいるんだ」へ至る小刻みな死の進度の回答の段階で、もう戦慄的な恐怖は抑えられなくなるが、ここまではまだ、実験の序盤だ。

この日から報告の一週間前まで、実験者たちは死の侵入を留め置くことに成功した。この期間、ヴァルドマル氏の状態は全く同じままだったのだ。
ついに、実験者たちはヴァルドマル氏を覚醒させる実験に着手する決意を固めた。
事態はここから、報告者も、医師や看護人も、勿論、ヴァルドマル氏自身も、誰もが予想しなかった吐き気を催すような悪夢的な展開を見せる。

“後生だ!――早く!――早く!――眠らせてくれ――でなければ、目覚めさせてくれ!――早く!――わたしは死んでいるんだぞ!”

ラスト2ページの、ヴァルドマル氏の断末魔の叫びと、彼の肉体が急速に溶解し液状化していく様は、作中の時間にして殆ど一分にも経たぬうちに起きた出来事だ。
冒頭から結末に至る完璧な首尾一貫性と、緊迫と恐怖を煽る効果を狙って正確に配置された言葉。極度に意識的な技巧で描かれたこの作品は、短編恐怖小説の最高ランクに位置する作品の一つだろう。


「落とし穴と振り子」は、異端審問所の地下牢に閉じ込められた死刑囚の恐怖体験。
縛られて身動き出来ない人物の上に、横降りしながらジワジワと下降してくる巨大な弦月刀は、江戸川乱歩あたりが好みそうな装置だなと思った。

リラダンの「希望」と似た要素の物語だが、結末は正反対だ。
「希望」は、“バベルの図書館”の29巻、リラダン著『最後の宴の客』に収録されている。ボルヘスが同じシリーズに似たようなテーマの作品を二つ選んだのには、彼なりの理由があるのだろう。私個人としては、最後に救いが現れる本作より、完膚なきまでに絶望の淵に叩き込まれる「希望」の方が好みだ。希望こそが犠牲者の精神を追い詰める最悪の拷問、という強者の無慈悲がいっそ心地良かったのだ。しかし、リラダンよりもポーの方が多くの読者を得ているのは、周知の事実ではある。
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ハロウィン2019

2019-11-01 07:36:22 | 日記

今年のハロウィンの晩御飯です。
メニューは、かぼちゃのキッシュ、かぼちゃとミックスビーンズのサラダ、かぼちゃのロールケーキです。


今年は、夫の誕生日、娘コメガネの誕生日、結婚記念日を外食にしたので、ケーキを焼くのは久しぶりでした。ロールケーキはひな祭り以来ですね。


断面図。
生地の色とかぼちゃクリームの色が殆ど同じなので、渦巻きが良く見えません。


メレンゲが上手く出来れば、生地が膨らまないということはないと思います。


焼き上がったら、乾燥防止のためにラップをかけて冷まします。ロールケーキの生地はスポンジケーキの三分の一くらいの時間で焼けるので楽です。




潰したかぼちゃとホイップクリームを混ぜて作ったクリームを塗って巻きます。
ロールケーキは巻く時が一番神経を使いますね。生地に横に幾筋か切れ目を入れて、クリームを巻き始めが山形になるように塗ると、割れずに巻けるようです。
その後、冷蔵庫で一時間以上しっかり冷まします。
表面にもかぼちゃクリームを塗って、シロップを塗したかぼちゃとホイップクリームで飾り付けたら出来上がり。




キッシュは、型にパイシートを敷き、炒めた具(かぼちゃ、ほうれん草、ベーコン)を入れ、卵二個と牛乳50ml、生クリーム100mlで作ったクリーム液を流し込み、ピザ用チーズを乗せてオーブンで焼きました。


かぼちゃとミックスビーンズのサラダには、炒めたかぼちゃとシメジ、それから、ミックスビーンズ、豆苗が入っています。ドレッシングは、マヨネーズ、すりごま、ごま油、だし汁で作りました。
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