「 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。」
「 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。 」
ヨハネの福音書 1章 10節
「 自然の光、また創造と節理の御業は、神の善性と知恵と能力 ( ちから ) とを、人間が言い訳できないほどによくあらわしている 」
ウェストミンスター信条より
神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認
められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。 というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝も
せず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者と
なり、 不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました
ローマ人への手紙 1章 20~23節より
すべてのものが神にあるならば、神はいったいどこにおられる。しかし、この問いに対して何と答えるべきか、いうべき言葉を誰も知り
ません。この世に神のおられないような場所ははたしてあるでしょうか。確かに神は、私たちの五感に触れない方です。しかし、もし私
たちが神の実体についてよく理解しょうとするなら、神はどこにでもおられること、神の実存が一定の場所に限定されるものでないこと
に気づかれると思います。すべてのものは、えも言われぬ不思議な方法で、神のうちにあり、神もまたすべてのもののうちに現存して
おられるのです。神は世が創られる以前におられたところに、今もおられることになるわけです。