「 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。」
ルカ 18章 9節
そのたとえ話が次の物語です。
「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、
ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。
『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。
パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」 18:10~14
自分自身を信じて生きている人たちに向けられたたとえです。日本人の多くの人が、「私は自分を信じて生きる。」と言いますが、
そのような人がどのような心の状態になっているかを、イエスは次から描かれます。
「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
パリサイ人が、心の中で祈っているとありますが、つまり、これは祈りではなく独り言です。
最初は、「神よ」と言いますが、その後はみな、「私」になっていることに注意してください。自分のことで思いがいっぱいになっています。
高ぶる者は奉仕 (人に仕えるまたは、世に仕えること) を嫌い出来なくなります。報酬をもらい、
あるいはそれ相当の評価を受けるとき、人間というものは働きやすいものです。そうした働きも大切ですが、
人の目にふれないが、他者のために働く奉仕の生活も大切です。神に信頼し、神にのみ期待する信仰と密接にかかわっています。