「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」
マタイ 6章 27節
人間にとって一番大事なものは命だということは誰も異論はないと思います。
山のようなお金を手に入れても、夢のような結婚ができても、死んでしまったら終わりです。
では私たちはどうやって命を手に入れたのか、自分で手に入れた人は誰もいません。
命はただ与えられるしかありません。しかも、いつまで自分の命があるのかさえ分かりません。
私たちは普段から、自分の力で手に入れたものだけが確かなもので、それが価値あるがあるかのように思い込んでいます、
有名な大学にはいる事とか、大企業で出世をすることに人生の意義を求めています。でも、本当はそうではないのです。
神が私たちに命を与えてくださらなければ生きられないのです。そして、神が命を与えて生かしてくださっているという事だけが、
人間の真実な価値であり、生きている意味ではないでしょか。
人間には高慢の罪があります。神のかたちに造られたので自由意志を持っており、神と同じように計画を立てることのできる存在、
知恵をもって創造的な働きをしていくことのできる存在であります。けれどもあくまでも被造物なのです。
自分の命は完全に神の手の中にあるのです。ところがそれさえも、自分で何とかしようとする。これが罪なのです。
思いわずらいからの解放される考え方が二つある。一つは創り主なる神の存在を信じることである。
イエスは神の創られた世界をよく見なさいと教え、野の鳥や野の花の例を示されている。
彼らは神に生かされるままに生きているではないか。あなたたちも神に自らの生を委ねて生きればよい、
何も心配することはないではない。イエスは言われている。
もう一つは、33節で述べられている「だから、神の国と神の義を第一に求めなさい。
そうすれば、それに加えてこれらのものはすべて与えられる」という神の約束である。
いずれにしても、思いわずらいから解放されるには、神を全幅的に信じ、神に思いわずらいを委ねることが先決なのである。