「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。
しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」
ルカ 22章 42節
ルカ 22章 42節
これは、自分の最後が刻々と迫っていることを意識したイエスが、非常に深い悩みの中で、
自分の本心を父である神に訴えた祈りとして、わたしたちに伝えられています。
イエスは、苦しみや悲しみ、そして死を全く恐れない冷徹な印象を与える方ではありませんでした。
人間らしい自然な、感情の豊かな方でした。死ぬのは嫌だ。できれば死から逃れたいと思って、
このように願われたのではないでしょうか。
「この杯をわたしから取りのけてください」と主ははっきりと祈りました。しかし、そう祈りながらも、
神の望みは、自分の願っていることとは違って、死を受け入れることであろうと主は気づいておられました。
神の望みを受け入れるのが苦しいとき、この場面を思い起こして、イエスの後に従って苦しみの中にも神の
教えに従って歩めるように祈っていきましょう。
イエスご自身も、戦っておられました。それは、ご自分の意思と御父の意思との間にある葛藤です。
イエスは、できれば杯を取り除けてほしかったのです。この杯は、御父との別れを示しています。
罪を負うことによって、聖なる神から引き離されるからです。神の御怒りをご自分の身に受けら れます。
そこで御心ならば、取り除けてくださいと祈っています。わたしが死ぬ以外で人々が救われるのなら、
取りのけてください。もし信心深くなって救われるのなら、良い行ないを積むことによって救われるのなら、
取りのけてください、ということです。けれども、やはりイエスが死ぬことは父のみこころでした。つまり、
どんなに信心深くなっても、どんなに人間が努力しても、決して救われないということです。
人はそれを認めたくありません。ペテロのように、「いや、自分でやってみる。」と思いたいのです。
けれども、キリストの十字架は、人は何も善 いところがない堕落した罪人であり、
自分では救いようのない存在であることを教えています。
神の子さえ、「理解できないことを受入れること」が難しかったことは、私たちを励ます。
しかしイエスは最後に勝たれたのです。「私の願いではなく、御心のままに行ってください」とは、私たちの祈りの確信です。
ヘブル2:18
「御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」。
「御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」。