「 イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」
マタイ 18章 22節
私たち人間が思いつく赦しと、神の考えておられる赦しとは、なんと、桁外れに違うということでしょう。
そして、人の頑張りはこなごなに砕かれてしまうのです。無限に赦すのは、自分が無限に赦されているからなのです。
昔。読んだ本を思い出しました。そのところで「なるほどね」と教えられたのでその一文を書かせていただきます。
その本の著者は奥村一郎神父の「断想」という本です。
愛だけが人間の救いであり、神を生き、神に生かされる道であることは確かである。しかし、過ちの多い人間にとって、
神が救いとなるためには、愛と「ゆるし」とは同意語とならなければならない。
人は無言の鏡の前に立つとき、自分の姿のゆがみに気づき、顔の汚れを素直に落とす気になる。
しかし、人から差されると、なぜか不愉快になる。鏡はすべてを受け入れる。鏡の注意は温かく、明るい。
人の言葉は鋭く、冷たい。事実、福音の本質といえば、「愛とゆるし」の二語に尽きる。
私たちが求めるべきものは、ただこのことだけであり、このことによってのみ、神を生き、キリストを知りるのです。
マタイ18:24-27
「決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王の所に連れられてきた。返せなかったので、
「決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王の所に連れられてきた。返せなかったので、
主人はその人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた。この僕はひれ伏して哀願した
『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。主人は哀れに思って、彼を赦しその負債を免じてやった。」