「気前のよい人は自分も太り/他を潤す人は自分も潤う。」
箴言 11章 25節
奉仕とは、経済的、時間的労力の上で犠牲が求められます。これは避けることの出来ない犠牲ですが。
この犠牲には恵みが伴います。その恵みの値打ちは計り知れないものです。
私たちのささやかな犠牲と奉仕によって「他を潤す人は自分も潤う」という経験をする恵でもあり、
さらにイエスにあって行われる犠牲には、永遠のいのちが約束されています。
イエス・キリストは「自分の十字架を負い、そして、私についてきなさい」と言われ、
またその報いとして、「この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では、永遠のいのちを受ける」
と約束してくださいました。
さて、神の律法の中に、「あなたがたの土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈ってはならない。
あなたの収穫の落ち穂を集めてはならない。(レビ19:9)」という教えがあります。
これはもちろん、貧しい人が後で来てそれを取りにくることができるようにするためです。
このように、神は良い意味で、大雑把になりなさいと命じておられます。
そうすると、かえって主はその与える人を祝福してくださいます。
自分が今持っているものを、自分で守ろうとする窮屈な心、上からの祝福を完全に度外視しているところには、
このあふれ出るような祝福は流れません。
Ⅱ コリント 9:6
「少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取 り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。」
ルカ 6:38
「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、
あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。
あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」