「人の怒りは、神の義を全うするものではないからである。」
ヤコブ 1章 20節
ここで言っている人の怒りとは、妬みや争いから生じている怒りです。
私たちは、自分がいつのまにか自分の義の中に陥っていないか、心を見張っている必要があります。
神の名を使いながら、実は神の義ではなく自分自身の義に陥っていることです。
しばしば言われるのは、「正しいと言い張るのが、正しくない。」であります。
正しいと言い張ると、そこには柔和さがなくなります。憐れみがなくなります。へりくだりがなくなります。
しかし、これらこそが神の義に至るものであり、自分の理解する正しさではないのです。
私たちはその心をイエスの十字架の血潮のゆえに消し去っていただかなければなりません。
「義」とは正しいことですが、絶対的に正しい方は神以外にありません。
人はとかく「自分は正しい」と「己の義」を主張しますが、それは神の義にくらべると、無に等しいものです。
「怒り」は自分の義を貫こうとするものです。そこには神を畏れる心はありません。
むしろ、神に取って代わり、自分が裁き、報復しようとしているのです。
どんなことも、全てを知り、また報われる神に委ねようではありませんか。
ヤコブ 4:1
「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。」
箴言 13:13
「みことばをさげすむ者は身を滅ぼし、命令を敬う者は報いを受ける。」
エペソ 4:26~27
「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」
詩篇 4:4~5
「おそれおののけ。そして罪を犯すな。床の上で自分の心に語り、静まれ。義のいけにえをささげ、主に拠り頼め」