「 義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。」
マタイ 5章 6節
「 ああ、飢えて死のうとする人が食物を求めるように、あるいは、渇いて死のうとする人が水を求めるように、
全な義を慕い求める人の、幸いよ ! その人は本当の満足を得ることができるであろう。」
バークレ―訳
自分自身のありのままの姿を見た人は、義に対して飢え乾きます。
自分の正しいと思っていた行いは、神の目から見たら汚いぼろきれのようなものです
「 幸い 」とは、神の祝福を受けた者としての喜びです。必ずしも自分が成功することではありません。
「 義に飢え…」とは、神との正しい関係、神のみ心に従うことをひたすら求める人のことです。
この人の追及は飢えや渇きが満たされるまでやむことはありません。
このような人を神はご自身との正しい関係に入れてくださるのです。
さて、肉体の渇きは水を飲めばおさまりますが、聖書にある渇いたものとは、どういうことでしょうか。
それは心から溢れるような喜びのない状態、心の中の欠乏を表しています。愛すべき夫を愛せない、
愛すべき子供を愛することができない。これは心が欠乏して豊かさを失った現実の姿です。
それを知った人は、神の義を理想とし、神の義を追い求めます。そして約束は、「満ち足りる」ことです。
キリストが現れる時、わたしたちはキリストに似たものになる事がわかっている、と使徒ヨハネは言っています。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます