当事者のかかえる苦しさの多くが、じつは「誰にも本当のことを言えない」つらさであることが多い。
p148
日常的に幻視が見えるナッシュは、目の前に立った人物が挨拶をしてきたとき、隣にいる気心の知れた人に「きみにも見える?」と確認し、「見えますよ」と言われたらナッシュはあらためて目の前の人物に挨拶した。
ナッシュは、日常的に見える幻視と現実の人を見極めるために、信頼できる身近な人を目の代わりとして使っていた。
つまり病識とは、たんに一人で誰にも頼らずに「現実か幻か」を見極められるようになることではなく、それを確認できる人とのつながり、「あいだ」から生まれる。
p146
自分が食べたいとき
→まわりの人が食べたがっている気がする
自分の体調が悪いとき
→○○さんがつらそうと感じる
自分が話したいとき
→○○さんが話したそうにしている
自分が眠たいとき
→○○さんが眠たそうにしている
自分が緊張しているとき
→相手が緊張している感じを受ける
自分が苦手な人といるとき
→相手に嫌われている感じがする
自分がこわいと思うとき
→相手が怖がっている感じがする
自分が好意をもつとき
→相手に好かれている気がする
p148
なぜこのようなことが起きるのか。
…
「この方が傷つかなくて済むから」
p144〜145
「生活音の研究」は、このたびの老夫婦の息子と同様に、近所の家から発せられる物音がすべて自分に対する嫌がらせだと思い込み、抗議を重ね、トラブルになった経験をもつ当事者が進めた研究である。彼も、統合失調症は五感の"誤作動"がおこりやすく、孤独や孤立が背景にあり、「トラブルを通して人と繋がっている」ことを発見した。そこで彼は、孤独や孤立を解消して現実の人との絆の回復を通じて、誤作動を起こす身体に
「もう、孤独ではないよ」
と語りかけることを実践した。
こうして「病識」を取り戻したのである。
p123
アメリカの思想家であり神学者であるティリッヒは、生きる勇気とは、「自己自身を肯定することを妨げようとするものに抗して"それにもかかわらず"自己を肯定すること」だと述べている。
パウル・ティリッヒ『存在への勇気』