敗戦の日、終戦記念日、色々と呼び名は
人によって変わるようですが…
僕は「終戦の日」と呼ぶようにしてます。
戦争とはただの命の遣り取りではありません。
命を奪われなかった人は、それ以外の尊いものを多く奪われるのです。
そして、人を殺めた果てに見る景色などは勝利とは呼べません。
数え切れない命を失った国をただ「敗者」などとと呼ぶことが、人として出来るでしょうか。
また、「勝者」とて多くの犠牲の基に成り立っている事もまた事実。
これほどまでに無残で、悲哀に満ちた行いを決して言葉で終わらせてはいけない気がします。
為政者とは、国民の全権代理人に過ぎません。
飽く迄も「代理」しているだけなのです。
仮に不幸にも戦争に行き着いた場合、血と涙を流し、
掛け替えの無い人生を奪い、奪われるのはその国民です。
それだけに、為政者には為政者としての真の覚悟が、
国民には、そういった代理人を選抜する立場にあるという確固たる意志が不可欠です。
形だけの民主主義を謳うこの世界で、いつまでも血が流れ続ける現状を見るに、
とても民主主義というシステムが機能しているとは言い難い。
結局の処、人治主義的な歪なシステムが蔓延っていると感じます。
20世紀という血塗られた戦いの時代を経た、21世紀の今も尚。
一部の人間のドス黒い欲望と陰謀によって戦いが始まり、
国民が血を流し尽くし、疲弊し切って戦いが終わる。
だから僕には、「終戦の日」以外に表現する言葉が思い浮かびません。
残念ながら相も変わらず、戦いの火種は尽きず今だに燻って、
この限られた狭い世界の中で、形を変えて人の命を弄び続けています。
幸せの形は千差万別だと言うけれど
平和とは一体なんなんだろう。
人によって変わるようですが…
僕は「終戦の日」と呼ぶようにしてます。
戦争とはただの命の遣り取りではありません。
命を奪われなかった人は、それ以外の尊いものを多く奪われるのです。
そして、人を殺めた果てに見る景色などは勝利とは呼べません。
数え切れない命を失った国をただ「敗者」などとと呼ぶことが、人として出来るでしょうか。
また、「勝者」とて多くの犠牲の基に成り立っている事もまた事実。
これほどまでに無残で、悲哀に満ちた行いを決して言葉で終わらせてはいけない気がします。
為政者とは、国民の全権代理人に過ぎません。
飽く迄も「代理」しているだけなのです。
仮に不幸にも戦争に行き着いた場合、血と涙を流し、
掛け替えの無い人生を奪い、奪われるのはその国民です。
それだけに、為政者には為政者としての真の覚悟が、
国民には、そういった代理人を選抜する立場にあるという確固たる意志が不可欠です。
形だけの民主主義を謳うこの世界で、いつまでも血が流れ続ける現状を見るに、
とても民主主義というシステムが機能しているとは言い難い。
結局の処、人治主義的な歪なシステムが蔓延っていると感じます。
20世紀という血塗られた戦いの時代を経た、21世紀の今も尚。
一部の人間のドス黒い欲望と陰謀によって戦いが始まり、
国民が血を流し尽くし、疲弊し切って戦いが終わる。
だから僕には、「終戦の日」以外に表現する言葉が思い浮かびません。
残念ながら相も変わらず、戦いの火種は尽きず今だに燻って、
この限られた狭い世界の中で、形を変えて人の命を弄び続けています。
幸せの形は千差万別だと言うけれど
平和とは一体なんなんだろう。