少し前に、リフターの人が僕に言いました。
「自分は20年もウエイトリフティングの世界にいる」
「だからベンチで200キロ挙がって当たり前なんです」と。
目つきや表情を見れば、それが謙遜や上っ面の言葉ではない事は分かる。
20年やってもまだ頂点に立てない、という悔しさに満ち満ちた顔だったから。
正直な所、僕は嬉しかった。
こういう潔い人が大好きだから。
自分もそうであろうと常々思っているから。
そして同時に思った。
この人は20年もの間、ただノンベンダラリンとバーベルを挙げてきた訳ではないと。
逆説的ながら、
そんなモチベーションではベンチプレス200キロなんて到達出来ないし、
20年間も、身体を壊しながら挑み続ける事など到底出来やしない筈だ。
ただ惰性でやってきたことを「積み重ねてきた」と嘯く人がいたとしたら
きっと20年も続かずに1回故障した時に辞めてしまうか、
或いは奇跡的に趣味のように続いたとしても、一般人に毛が生えた程度のレベルだろう。
それは断言できる。身体付きと面魂を見ればすぐ分かる。
競技の世界にも残念ながら存在する。
「人一倍の努力を積んできたんだ」と啖呵を切る割に、
じゃあ一体何をどの位やってきたのかと聞けば、
知識も引き出しもなければ、当然オリジナルの理論も工夫もなく、
挙句の果てに雑誌やDVDを「購入させられて」その受け売りを語り、
更に情けない事に全く自分のモノに出来てもいない人。
当然、鍛えるなんて事は100%やっちゃいない。
それを「積み重ね」とは言わない。
それこそが「惰性の産物」なのだ。
ただダラダラと道楽でつまみ食いしただけの、児戯にも劣る代物。
爆弾抱えて、僕もやっと「少しだけ」分かった。気がする。
目の前が真っ暗くなるような絶望感に頭を抱えて、嫌な汗をジンワリかいて、
ケツに火が点いて、試行錯誤と苦肉の策を織り交ぜて、
不安と、焦りと、ヤケになりそうな己を飲み込んで、
初めて「積み重ねる」という意味を知った。
そのリフターの人を含め、色んな達人やプロ、アスリート達が
苦心惨憺の果てに歩みを止めず、進み続けた道。
進み続けて、それぞれの答えや納得感を見出してきた系譜。
そこには、様々な葛藤や感情だけでなく
「思考」「行動」「変化」「対応」が濃密に詰まっている。
積み重ねる、とはそこでこそ初めて言える言葉だ。
20年かぁ…
それほど続けた事って何もないなぁ…
僕はまだまだだ。