・初めての方は、こちらもどうぞ!→『ようきてな』
・豊田真大の自伝『超個人的疑問』はこちらです。
・嫁の『ダラックマのブログ』も良ければ一緒にお読みください。
おはようございます。
日曜日の朝は素晴らしいですねw
今朝も6時に起きて洗面して座禅をしました。
本日は50分であります。
座禅をするのは、健康のためであります、笑
間違っても悟りを目指すためにしているわけではありません。
今は。
ランキング2ヶ所クリックにご協力宜しくお願いします。
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そのあとで、煙草を吸いながらコーヒーを楽しみ、読書1章。
ちなみに玄関先の極寒の中でやっていますwwww
嫁と息子(1歳5ヶ月)がいるので部屋の中で煙草は厳禁なのであります。
いつもなら、ここで朝食ですが、休日なので作ってほしいと嫁様がおっしゃる。
トーストとサラダとハムエッグを作って2人で食べました。
テレビ点けて、嫁様は『モグ』とかいうゲームをしながらだった、笑
お皿を洗ったり、片付けたり、しないといけないが、面倒なので、先にブログを更新することにして、書いています。
ああ、書きながら煙草が吸いたくなってきた!
と、思って煙草を探していたら、妻に、悠聖にご飯あげてと頼まれ、あげていたら、今度は悠聖が外に行きたがる。
探していた煙草を車に見に行くが吸いきったようなので、コンビニへ。
ついでにコインランドリーで洗濯物を乾かすように頼まれたので、到着後、乾燥機に入れて、30分まわす。
コンビニへ入ると母親から電話がありメヌエル病で体調が悪い。
父親の介護施設に電話して、もう一日預かってもらうので、血圧の薬と、着替えを持っていってほしいと頼まれる。
母親自身も動けないので「車酔い止めの薬」を探して欲しいらしい。
あと親戚の叔父さんが持ってきてくれたシャンプーも片付けて欲しいらしいw
いろいろありすぎwwwww
で、千鶴さん(妻)に電話して、とりあえず話を聞いてくるように依頼する。
コンビニの週刊誌の棚を見ていたら『実話ナックルズ』を久しぶりに見たくなり、購入することにした。
レジで何となく表紙を見られたくなかったので、裏側を出したら、思いっきりテレクラの広告で半裸の女性の絵があり、なんか余計に恥ずかしい思いをした(爆笑)
煙草とコーヒーも一緒に買って、車の中で雑誌と一緒に楽しみながら、服の乾燥を待つ。
家へ帰ってやっと落ちついてブログの更新を再開しております。
なんか、こんな風に日常生活を書くのも久しぶりですね。
最初の頃は日記風だったのが、仕事首事件から、精神世界的になっていったのでした、笑
さて、悟りのことについてですが、もちろん私めのような、ど素人が本来の面目を完全理解していないとは思いますが、まあ、自分なりに読書やら座禅やら、その他の、人生体験から納得のできたことを書いているわけであります。
本当に、準備されるかたでしたら、まあ、様々に書籍もあります。
増谷文雄さんの『仏陀ーその生涯と思想ー』はお勧めであります。
新書なんかでもたくさん、有名な方が、論を展開されておりますね。
もちろん僧籍の方で大学なんかで哲学を修めて、更に、禅寺で修行を云十年という方の書かれた本が普通に読めますwwww
精神世界系では、僕は、なんといってもグルジエフさんに影響を受けていますので、彼の本がお勧めですが、まあ、マニアックすぎるという方は、他にもいろいろと、一般的な書籍も販売されていると思います。
二ール・ドナルド・ウォルシュさんの『神との対話』
エックハルト・トールさんの『ニューアース』
この辺りなんかは、社会一般でもある程度売れているほうなのではないでしょうか。
だいたい、この2冊を読めば、他の本を読まなくても、スピリチュアルが何を表現したいのか一発で分かると思います。
では、この仏教とスピリチュアルの違いとは何でしょうか。
まあ結局は同じことを指しているのだと言われる方もいるわけですが、僕の直感では、この仏教の説とスピリチュアルの説は違うのであります。
なぜならば、スピリチュアルのほうは条件が設定されているからです。
愛であるとか、希望であるとか、信仰などであります。
仏教では、必要とされるのは、八正道とされています。
もともとあるところの諸行無常でしかない我々、この、当の今にしかない我々。
自分自身でしかない我々の『我』が落ちるか落ちないかが、違うのであります。
スピリチュアルの道では(道というのかは知りません)、我が成長したり、人格が向上したり、高級なる我が現れたりと派手ですが、対象としての我が結局、残り続けているのであります。
いわく全体としての自己とか、ワンネス意識だとか、神だとか、高次意識、高次感情だとか、はたまた、守護霊だとか、真我、原因体、空意識、ハイヤーセルフ、超越意識、宇宙的自己、そのほかにも様々な名称で呼ばれています。
たぶん、同じ状態を指していると僕は思うのですが、これは客観視する意識のことを指しているのであります。
つまり通常の意識活動を、その向こうから客観視(相手から見た視点)で捉えている、なんとも名づけがたい全体的な意識状態をさしているのです。
しかし、この高級なる我は、対象化されている限り、認識の範囲を超えないのです。
仏教で言う『我』が無いというのは、もともと、我が無いことに気がつくことです。
それは超越的であろうと自然的であろうと、内在とか超越とかを関係なく、誰もが元々にして自己としてあるところに、区別、差別が無いということなのです。
ですから、何か、この向こう側とか、思考の認識の中に、新たなるものが形成されていったり、成長したり、はたまた、監視されたり、恐怖したり、そのような、活動の中だけには留まらない、もっと当たり前の、凄くないことなのです。
スピリチュアルは世界の展開の中での話で、これは、とても有益なことが、たくさんあったりもするわけですが、仏教は、その展開の手前のことを言っているので、あまりにも、すごくなさ過ぎる、まあ、退屈なことなのです(爆笑)
しかし、そこのところが、例えば座禅や瞑想を、なんらかの悟るための手段にしてみたり、様々テクニックや、狂信的な信仰心をもってみたり、いろいろと想念の側に傾いていくと危険ですね。
なぜなら絶対に手に入らないものを求めてしまうからです。
なぜ手に入らないかというと、もう既に、受け取っていることを、探しているからなのです!!!!
ですから見つけてみたって、たいしたことない、普通の日常だ。
しかし、その普通の日常の中に、安心や、楽しみが生まれて、心から苦しみが拭い去られていけば、それが、単に、仏の心なのですねwwww
もともと仏様の心に、人間の心も派生しているのであります。
ここが僕の勘違いはなはだしかった箇所であり、なんとか、ここを書いておきたいという思いが、昨年の秋ごろから、少しづづ出てきているのであります。
例えば「いまここ」を生きるというとカッコウがいいですが、この「いまここ」というのは頭の中で作戦を立てて、さあ「いまここ」「いまここ」とやっていることではないのでありますwwwwww
いまここを生きているのでしかないのです。
最初から!
これを手に入れるために、あれや、これや、と説いたり、テクニックを導入したりしたら、どうなりますか?
もう既にあるものが、無いという前提から始めるから、探してしまう。
あるがままに生きるというのも同じです。
あるがままに生きるためには、これこれ、こういう技がありますとありますw
しかし、本来は、あるがままでなかったときなんか、誰も無いのです。
常にあるがままであり、来るがままであり、実質、実相、リアルから離れた生などは、誰一人として送ってなんかいないのです。
つまり差別無く、誰もが、最初から仏なのです!
じゃあ、仏教とかスピリチュアルはいらないではないかと思われてしまいますがwwww
ここが重要なポイントですね。
そのあるがままの、来るがままのリアルは、そのままであるのですが、それを肝心要の、思考中枢が忘れているのです!
なんと眼が覚めているのに夢を見ているかのように「思い」を掴んで離さないのです。
それが、ただいまに帰るという必要性をもたらすのですね。
ですから一度帰っても、また、「思い」に触れて、また帰って、また触れて、という風なことを何度も何度もやっている。
この行ったり来たりしているのが悟りで、祈りなのです。
この動き自体が諸行無常で、ただいまで、そこから離れないのです。
まあ、自分が、それを言いたいだけで、これが役に立つ人も、70億人もいれば1人くらいはいるかもしれないなという、まあ、ないかもしれませんが、そういった思いがあるのであります。
とにかく、僕には、僕自身には、これは凄いことなのですwwwww
ふう、
今日は書きすぎて疲れました、笑
まあ、だめ人間、だめまの下根屁理屈は「忘れて」
よい日曜日をお過ごしくだされ♪
・豊田真大の自伝『超個人的疑問』はこちらです。
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おはようございます。
日曜日の朝は素晴らしいですねw
今朝も6時に起きて洗面して座禅をしました。
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間違っても悟りを目指すためにしているわけではありません。
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そのあとで、煙草を吸いながらコーヒーを楽しみ、読書1章。
ちなみに玄関先の極寒の中でやっていますwwww
嫁と息子(1歳5ヶ月)がいるので部屋の中で煙草は厳禁なのであります。
いつもなら、ここで朝食ですが、休日なので作ってほしいと嫁様がおっしゃる。
トーストとサラダとハムエッグを作って2人で食べました。
テレビ点けて、嫁様は『モグ』とかいうゲームをしながらだった、笑
お皿を洗ったり、片付けたり、しないといけないが、面倒なので、先にブログを更新することにして、書いています。
ああ、書きながら煙草が吸いたくなってきた!
と、思って煙草を探していたら、妻に、悠聖にご飯あげてと頼まれ、あげていたら、今度は悠聖が外に行きたがる。
探していた煙草を車に見に行くが吸いきったようなので、コンビニへ。
ついでにコインランドリーで洗濯物を乾かすように頼まれたので、到着後、乾燥機に入れて、30分まわす。
コンビニへ入ると母親から電話がありメヌエル病で体調が悪い。
父親の介護施設に電話して、もう一日預かってもらうので、血圧の薬と、着替えを持っていってほしいと頼まれる。
母親自身も動けないので「車酔い止めの薬」を探して欲しいらしい。
あと親戚の叔父さんが持ってきてくれたシャンプーも片付けて欲しいらしいw
いろいろありすぎwwwww
で、千鶴さん(妻)に電話して、とりあえず話を聞いてくるように依頼する。
コンビニの週刊誌の棚を見ていたら『実話ナックルズ』を久しぶりに見たくなり、購入することにした。
レジで何となく表紙を見られたくなかったので、裏側を出したら、思いっきりテレクラの広告で半裸の女性の絵があり、なんか余計に恥ずかしい思いをした(爆笑)
煙草とコーヒーも一緒に買って、車の中で雑誌と一緒に楽しみながら、服の乾燥を待つ。
家へ帰ってやっと落ちついてブログの更新を再開しております。
なんか、こんな風に日常生活を書くのも久しぶりですね。
最初の頃は日記風だったのが、仕事首事件から、精神世界的になっていったのでした、笑
さて、悟りのことについてですが、もちろん私めのような、ど素人が本来の面目を完全理解していないとは思いますが、まあ、自分なりに読書やら座禅やら、その他の、人生体験から納得のできたことを書いているわけであります。
本当に、準備されるかたでしたら、まあ、様々に書籍もあります。
増谷文雄さんの『仏陀ーその生涯と思想ー』はお勧めであります。
新書なんかでもたくさん、有名な方が、論を展開されておりますね。
もちろん僧籍の方で大学なんかで哲学を修めて、更に、禅寺で修行を云十年という方の書かれた本が普通に読めますwwww
精神世界系では、僕は、なんといってもグルジエフさんに影響を受けていますので、彼の本がお勧めですが、まあ、マニアックすぎるという方は、他にもいろいろと、一般的な書籍も販売されていると思います。
二ール・ドナルド・ウォルシュさんの『神との対話』
エックハルト・トールさんの『ニューアース』
この辺りなんかは、社会一般でもある程度売れているほうなのではないでしょうか。
だいたい、この2冊を読めば、他の本を読まなくても、スピリチュアルが何を表現したいのか一発で分かると思います。
では、この仏教とスピリチュアルの違いとは何でしょうか。
まあ結局は同じことを指しているのだと言われる方もいるわけですが、僕の直感では、この仏教の説とスピリチュアルの説は違うのであります。
なぜならば、スピリチュアルのほうは条件が設定されているからです。
愛であるとか、希望であるとか、信仰などであります。
仏教では、必要とされるのは、八正道とされています。
もともとあるところの諸行無常でしかない我々、この、当の今にしかない我々。
自分自身でしかない我々の『我』が落ちるか落ちないかが、違うのであります。
スピリチュアルの道では(道というのかは知りません)、我が成長したり、人格が向上したり、高級なる我が現れたりと派手ですが、対象としての我が結局、残り続けているのであります。
いわく全体としての自己とか、ワンネス意識だとか、神だとか、高次意識、高次感情だとか、はたまた、守護霊だとか、真我、原因体、空意識、ハイヤーセルフ、超越意識、宇宙的自己、そのほかにも様々な名称で呼ばれています。
たぶん、同じ状態を指していると僕は思うのですが、これは客観視する意識のことを指しているのであります。
つまり通常の意識活動を、その向こうから客観視(相手から見た視点)で捉えている、なんとも名づけがたい全体的な意識状態をさしているのです。
しかし、この高級なる我は、対象化されている限り、認識の範囲を超えないのです。
仏教で言う『我』が無いというのは、もともと、我が無いことに気がつくことです。
それは超越的であろうと自然的であろうと、内在とか超越とかを関係なく、誰もが元々にして自己としてあるところに、区別、差別が無いということなのです。
ですから、何か、この向こう側とか、思考の認識の中に、新たなるものが形成されていったり、成長したり、はたまた、監視されたり、恐怖したり、そのような、活動の中だけには留まらない、もっと当たり前の、凄くないことなのです。
スピリチュアルは世界の展開の中での話で、これは、とても有益なことが、たくさんあったりもするわけですが、仏教は、その展開の手前のことを言っているので、あまりにも、すごくなさ過ぎる、まあ、退屈なことなのです(爆笑)
しかし、そこのところが、例えば座禅や瞑想を、なんらかの悟るための手段にしてみたり、様々テクニックや、狂信的な信仰心をもってみたり、いろいろと想念の側に傾いていくと危険ですね。
なぜなら絶対に手に入らないものを求めてしまうからです。
なぜ手に入らないかというと、もう既に、受け取っていることを、探しているからなのです!!!!
ですから見つけてみたって、たいしたことない、普通の日常だ。
しかし、その普通の日常の中に、安心や、楽しみが生まれて、心から苦しみが拭い去られていけば、それが、単に、仏の心なのですねwwww
もともと仏様の心に、人間の心も派生しているのであります。
ここが僕の勘違いはなはだしかった箇所であり、なんとか、ここを書いておきたいという思いが、昨年の秋ごろから、少しづづ出てきているのであります。
例えば「いまここ」を生きるというとカッコウがいいですが、この「いまここ」というのは頭の中で作戦を立てて、さあ「いまここ」「いまここ」とやっていることではないのでありますwwwwww
いまここを生きているのでしかないのです。
最初から!
これを手に入れるために、あれや、これや、と説いたり、テクニックを導入したりしたら、どうなりますか?
もう既にあるものが、無いという前提から始めるから、探してしまう。
あるがままに生きるというのも同じです。
あるがままに生きるためには、これこれ、こういう技がありますとありますw
しかし、本来は、あるがままでなかったときなんか、誰も無いのです。
常にあるがままであり、来るがままであり、実質、実相、リアルから離れた生などは、誰一人として送ってなんかいないのです。
つまり差別無く、誰もが、最初から仏なのです!
じゃあ、仏教とかスピリチュアルはいらないではないかと思われてしまいますがwwww
ここが重要なポイントですね。
そのあるがままの、来るがままのリアルは、そのままであるのですが、それを肝心要の、思考中枢が忘れているのです!
なんと眼が覚めているのに夢を見ているかのように「思い」を掴んで離さないのです。
それが、ただいまに帰るという必要性をもたらすのですね。
ですから一度帰っても、また、「思い」に触れて、また帰って、また触れて、という風なことを何度も何度もやっている。
この行ったり来たりしているのが悟りで、祈りなのです。
この動き自体が諸行無常で、ただいまで、そこから離れないのです。
まあ、自分が、それを言いたいだけで、これが役に立つ人も、70億人もいれば1人くらいはいるかもしれないなという、まあ、ないかもしれませんが、そういった思いがあるのであります。
とにかく、僕には、僕自身には、これは凄いことなのですwwwww
ふう、
今日は書きすぎて疲れました、笑
まあ、だめ人間、だめまの下根屁理屈は「忘れて」
よい日曜日をお過ごしくだされ♪