・妻の『ダラックマのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。
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こんにちは。
妻がブルーメの丘で楽しんでいた様子を読んで、イジケテイル、拗ねている「だめま」です。
今日から夜勤だというのに、朝の4時に起きてしまいました。
そこからユーチューブの動画を8時ごろまで見て、また眠ってしまう。
10時半ごろに起きて、動画の続きを視聴して、母親の家の冷蔵庫にあったお寿司の残りを食べる。
お菓子もいただきました。
サッポロ一番味噌ラーメンも朝方に食べたし、食べすぎだなあ。
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そのあとでおもむろに座禅を15分と読書です。
頭の意志とは別の感受性が連なる気づきというものが、起動というか、認識の内に入るには静寂になることが必要である。
頭があれこれ、感じて考えるのを止める。
心が感情的に、後悔や恐怖に引きずられているのを止める。
安心の中に入る。
すると、察している力、ささやきの声が、感得されてくる。
いつも働いているのだ、この力は、常に在る。
それが私だ。
導かれる者として17年間試行錯誤した経験から、指導的立場にある人に共通の盲点を指摘してみたいと思う。
それは、理解させよう、できるようにさせようという態度である。
自我の落ちる過程は、何かの意見に従うことに縁っては起こらない。
自分自身が投入された苦しみの中で、無努力が生まれることによって、自然の力へと、解放されることに縁って起こるのである。
座禅とは、それは理解することでも、できることでもない。
また悟りとは、理解することも、できることもない。
理解されたり、実行されたりしている認識が働いた時点で失われている。
しかし、覚醒した人は、一度味わった無我の体験を、あとから規定しようとする。
これが「いまここ」であったり「自己想起」であったりするわけだ。
それは真実だが、果たして、その、真実を指す言葉が、人を導くだろうか?
私は、真実の教えを、何度も聞いたり、読んだり、教えてもらったりしたが、私が落ちることに、その教えが役に立っただろうか。
役に立ったのは、落ちたあとだけである。
落ちたあとに、自分の自我が、体験を規定するのに役立ったのだ。
つまり、これは自我にとっての保存機構のように働き出すのである。
これが「いまここ」だ。
「自己想起」だと理解したり、できていたりするのは、あとになって認識が、それを規定して、見ている状態である。
つまり、このことで、その瞬間は「自己想起」されなくなっているのである。
このアイデアを持ち運ぶことで実体としてのリアルな生を阻害させるのだ。
だから見性後に知った事実を、教えていることは、それは、実は、他者に可能性を教える以上の役割を果たさずに、その可能性が、真理を阻害させる働きを生み出す。
実際に役に立ったのは「精神集中」と「リラックス(解放)」である。
集中して解放するという能力が、この理解に至る道であって、見性後の事実や、働きではないのではないだろうか。
深刻に考えている時点で、不可能なのであるから、そうである。
歴代の覚醒者が、真理を語っても、誰も理解しなかったではないか。
社会全体に、文明の内に、新しい層の構築をするのであれば、これは特殊なものであってはいけないのである。
医師であるとか、技師であるように、自覚師というものである必要がある。
特別性が、これを阻害するのだ。
なにも特別なことではないことに、過大な評価をしてしまう。
それでは、ほんとうに社会において、宗教が真に、人間の苦しみを取り除く働きができるだろうか。
甚だ疑問である。
心理学が、薬を処方することや、考え方を弄ることで、心を治療しようということが、現代の集団的混乱に終止符を打てるとは思えない。
感得する、納得する能力の開発が、系統立って、いなければならない。
例えば、音楽の学習が、発展的に、できていくように、一般的に、認められて、学習、もしくは体験していくことができるようにならない限り、この分野が、世界で再び、科学の基礎、学問の基礎、人間の調和に貢献することは、限られている。
たくさんの人の理解が実現されなければならない。
一部の特殊なことであっては、広まっていくことがないのだ。
静粛と安心と誠実さによって、心の「集中力」と「解放力」の2つの能力を鍛えることが、その広めるべき、方法論の、つまりシステムの基礎である。
僕などの学のないものではなく、たくさんの優秀な人の、参加があれば、それは実現していくだろう。
科学が発展してきたように、調和が発展していくだろう。
それが、グルジェフさんの目指した中核の形成だったのではないだろうか。
山寺の和尚さんの果たすべき使命だったのではないだろうか。
問題は、実際には、方法は、存在しないということである。
しかし、ひとつだけ、誰にも通用するであろう方法がある。
緊張を解くということである。
緊張を解くには様々な方法があっていいのだが、緊張を解くことが方法のすべてなのだ。
こころとからだの力を抜くことなのである。
あの、リラックマのように(爆笑)
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妻がブルーメの丘で楽しんでいた様子を読んで、イジケテイル、拗ねている「だめま」です。
今日から夜勤だというのに、朝の4時に起きてしまいました。
そこからユーチューブの動画を8時ごろまで見て、また眠ってしまう。
10時半ごろに起きて、動画の続きを視聴して、母親の家の冷蔵庫にあったお寿司の残りを食べる。
お菓子もいただきました。
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頭の意志とは別の感受性が連なる気づきというものが、起動というか、認識の内に入るには静寂になることが必要である。
頭があれこれ、感じて考えるのを止める。
心が感情的に、後悔や恐怖に引きずられているのを止める。
安心の中に入る。
すると、察している力、ささやきの声が、感得されてくる。
いつも働いているのだ、この力は、常に在る。
それが私だ。
導かれる者として17年間試行錯誤した経験から、指導的立場にある人に共通の盲点を指摘してみたいと思う。
それは、理解させよう、できるようにさせようという態度である。
自我の落ちる過程は、何かの意見に従うことに縁っては起こらない。
自分自身が投入された苦しみの中で、無努力が生まれることによって、自然の力へと、解放されることに縁って起こるのである。
座禅とは、それは理解することでも、できることでもない。
また悟りとは、理解することも、できることもない。
理解されたり、実行されたりしている認識が働いた時点で失われている。
しかし、覚醒した人は、一度味わった無我の体験を、あとから規定しようとする。
これが「いまここ」であったり「自己想起」であったりするわけだ。
それは真実だが、果たして、その、真実を指す言葉が、人を導くだろうか?
私は、真実の教えを、何度も聞いたり、読んだり、教えてもらったりしたが、私が落ちることに、その教えが役に立っただろうか。
役に立ったのは、落ちたあとだけである。
落ちたあとに、自分の自我が、体験を規定するのに役立ったのだ。
つまり、これは自我にとっての保存機構のように働き出すのである。
これが「いまここ」だ。
「自己想起」だと理解したり、できていたりするのは、あとになって認識が、それを規定して、見ている状態である。
つまり、このことで、その瞬間は「自己想起」されなくなっているのである。
このアイデアを持ち運ぶことで実体としてのリアルな生を阻害させるのだ。
だから見性後に知った事実を、教えていることは、それは、実は、他者に可能性を教える以上の役割を果たさずに、その可能性が、真理を阻害させる働きを生み出す。
実際に役に立ったのは「精神集中」と「リラックス(解放)」である。
集中して解放するという能力が、この理解に至る道であって、見性後の事実や、働きではないのではないだろうか。
深刻に考えている時点で、不可能なのであるから、そうである。
歴代の覚醒者が、真理を語っても、誰も理解しなかったではないか。
社会全体に、文明の内に、新しい層の構築をするのであれば、これは特殊なものであってはいけないのである。
医師であるとか、技師であるように、自覚師というものである必要がある。
特別性が、これを阻害するのだ。
なにも特別なことではないことに、過大な評価をしてしまう。
それでは、ほんとうに社会において、宗教が真に、人間の苦しみを取り除く働きができるだろうか。
甚だ疑問である。
心理学が、薬を処方することや、考え方を弄ることで、心を治療しようということが、現代の集団的混乱に終止符を打てるとは思えない。
感得する、納得する能力の開発が、系統立って、いなければならない。
例えば、音楽の学習が、発展的に、できていくように、一般的に、認められて、学習、もしくは体験していくことができるようにならない限り、この分野が、世界で再び、科学の基礎、学問の基礎、人間の調和に貢献することは、限られている。
たくさんの人の理解が実現されなければならない。
一部の特殊なことであっては、広まっていくことがないのだ。
静粛と安心と誠実さによって、心の「集中力」と「解放力」の2つの能力を鍛えることが、その広めるべき、方法論の、つまりシステムの基礎である。
僕などの学のないものではなく、たくさんの優秀な人の、参加があれば、それは実現していくだろう。
科学が発展してきたように、調和が発展していくだろう。
それが、グルジェフさんの目指した中核の形成だったのではないだろうか。
山寺の和尚さんの果たすべき使命だったのではないだろうか。
問題は、実際には、方法は、存在しないということである。
しかし、ひとつだけ、誰にも通用するであろう方法がある。
緊張を解くということである。
緊張を解くには様々な方法があっていいのだが、緊張を解くことが方法のすべてなのだ。
こころとからだの力を抜くことなのである。
あの、リラックマのように(爆笑)