・初めての方は、こちらもどうぞ!→『ようきてな』
・豊田真大の自伝『超個人的疑問』はこちらです。
・嫁の『ダラックマのブログ』も良ければ一緒にお読みください。
こんにちは。
本日は午後2時に起床しました豊田です。
居間へ出て、見渡すと誰もいない。
あれ、千鶴さんはどこだろう?
ハッ!
昨日は起されて怒ったので、何も言わずに悠聖と散歩へ行ったのかもしれない。
シーンと静まった家の中で、洗面をして、座禅を15分します。
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静かに座っているとガヤガヤと賑やかなる女性の声がする。
「こんにちは」
「おじゃましまーす!」
と4、5人の方々が、ゾロゾロと母親の家を訪れているようだ。
ここで、めちゃめちゃ注意を惹かれてしまいます(苦笑)
気合を入れてリラックスして、そのままで、胸、胸とか集中していたら、肝心の、体を忘れてしまっていた(爆笑)
どうも落ち着きのない中で、今日も座禅を終えます。
いつもの如く、ブラック珈琲を淹れて、玄関脇へと読書に向かう。
母親の家の窓が開かれているので、先程の女性達との会話がちらほら聞こえてくるが、どうも、父親の介護のことに関して話しているようだ。
健康な息子が、煙草を吹かして、読書をしているのに、他の方々に介護をしてもらっているという申し訳ない気分で逃げ隠れしようかと思ってしまう・・・・・・orz
極めて情けない我ですw
そのまんま読書を続けていると「ただいま~」と千鶴さんが帰ってきた。
見ると買い物袋を2つ抱えている。
「買い物に行ってたの?」
僕はてっきり悠聖と散歩へ行っていると思っていたので、珍しく一人で買い物へ行ったのかなと不思議な感覚になる。
「うん、オトンもおるでなっ」
ああ、勢和多気のご両親が、遊びに来てくれたのか。
と、思っている内に、お母さんが見えたのでご挨拶します。
「怒るとアカンで、起さないでおいたからね!」と千鶴さんが嫌味っぽく言うw
こりゃ、なんとなく攻撃されている気分になるねえ。
そんなガヤガヤとした雰囲気の中で、読書を終え、ブログの更新をしています。
悠聖も多気のお父さんと帰ってきて、ワンワンと泣いていたが、遊んでもらって、落ち着いたようだ。
最近は、外に出ることが好きで、家の中に入ると、よく泣いている。
ブログを書き始めていると、千鶴さんがキャラメルを「お土産」と言って見せに来た。
どうも『鈴鹿ベルシティ』に、買い物に行っていたらしく、そこで楽天で1位とかいうキャラメルを試食して惚れ込んだようだ。
「僕は甘いもの食べてないよ」と言うと「まあ1個、2個なら大丈夫でしょ!」
「それくらいなら大丈夫かなあ」
さて本日は、実践しだした『感情ストップ』の効能について書きたいと思います。
これは、社会、他者から向けられた心理的不快感や、本能、性の働きから来る不快感を胸の上部にある感覚として捉えた瞬間でストップして、内面にある自己へと発展させないというテクニックであります。
昨日から、この感情の苦との直面を開始しているのだが、たった1日で、もう泣きそうになり、更に、なんかこう悲しくもなり、自分が落ちるってこういうことか! と、納得もしてきて、逃げ出したくなっています(爆笑)
これ、絶対無理だよね!?
無理、無理、これは無理に決まっている。
なんか方法を間違えているのではないか、掴まるところ、逃げるところ、隠れるところがあるのではないか。
と、何度も、自己内部だけの「思い」でアチコチの空想へと逃げ出して「方法」を考えていた、軟弱なる僕・・・・・・orz
これは「どうすれば病」との戦いでもあったのですね(苦笑)
しかし、リアルに「自尊心や虚栄心」を見るのは、マジで苦しい、キツイ。
ヤバイっw
「人に威張りたい」とか「オレは正しい」とか「約束を守っている」とか、なんだかんだと超勝手なる思い込みを抱えながら、反発している自分が、これでもかと認識される。
他者や自然に怒っているのは、完璧に、自分の性なのだ(大爆笑)
それを感覚の段階で無理矢理ストップさせようとすると、泣き崩れそうになる。
何かこう、子供の頃に苛められてワーンと大泣きしていた時のように、顔面が熱くなって泣き崩れそうになってくるのだ。
さすがに大人なので、それはしないのですが、気分的に、こう、なんともならない苦しさ、情けなさに晒されます。
この「こころの穢れ」が崩壊するまで踏ん張るのだ!!!!
そこを突き抜けると「悲しみ」のような「落ち込み」のような状態になって、どうも落ち着いてくるのだが、これが『諦めの境地』かもしれない。
確かに、落ち着いて静かな「こころ」になっている。
リアルなる事実に敗戦後の主人公のような、そんな、感覚である。
これは苦しみを、苦しみのままに受け取ることだろう。
肉体的感覚、もしくは社会(他者)からの心理的不快感→本能、または過去の記憶からくる恐怖の誘発→怒りの胸への突き上げ→エゴの壁(緩衝器)の発動→脳内爆発(理性喪失)となっているのだが、このエゴの壁から脳内爆発の作用を観察して止めるのだ。
実際の感覚としては、怒りが胸の上部で、苦しみの感覚のまま、止められている。
そこから内部へと展開しようとする、愚痴、やら、批判に、絶対行かせないのである。
目の前の事実の中に、無理矢理、自己を出そうとしている。
自己の内部活動を消失させる。
これは効果覿面すぎて、速攻で、逃げ出したくなりますwwwww
苦しみを苦しみのままに受け止めるのが「ワーク」つまり「仕事」だなと思いました。
肉体の労働だけではなく心の仕事も毎日の生活全体に含まれていたのだ。
仕事したのは肉体と心と頭でなければならない。
全部が参加して、初めて、人間であるとグルジェフさんは言ったのである。
人間としての義務ではないと思っていたら、どうしても個人的自尊心から、嫌になってしまうに決まっている。
休むほうが楽に決まっているのだから怠惰の習慣に陥るだろう。
まあでも、自己を主張したくてしかたがない、子供のような、この自分自身が、落ちるための心理的ストレスは、そこら中に無料で転がっているではないか(爆笑)
こころの苦しみが全部それだ。
『苦』自体が、苦を滅尽させるための栄養素なのだwwwww
だから文字通り、非常に苦しい戦いだが、超えていくためには、苦しみを苦しみのままに、恐怖を恐怖のままに、そこにいるしかないだろう。
苦から、外れる、逃げる、隠れるというのが、脳内妄想なのであり、クンダバッファの「緩衝器」の正体なのである。
それが性的妄想やら、他者批判に繋がっているのだ。
これを『愛の欠如』と言うのである。
苦しみのままに、恐怖のままに、ここで開き直って生きる。
あるがままの自己が、今、ここに存在することでしかワークできないのである。
情けない自己を炙り出さなくては、真の人間、誠実な人間にはなれないようなのだ。
それでは、だめまのように『嘘』を生きる人になる。
他者は自己の弱点を常に突いてくれているのだから、自尊心や虚栄心のある間は、嫌なことばかりあって当たり前なのである。
苦しみは、乗り越えるべき、壁、破壊すべき空想なのだ。
生きて、超えるまで、永遠に与え続けられる、創造主の恩恵であるわけだ。
というわけで、僕、個人の、内面での密かなる幸福にとっては、恐ろしくも腹立たしいことではあるが、自我活動の落ちる「悲しみ」に触れるために『不快感』を胸の感覚でストップさせ、外に出るという『秘儀』に今日も挑戦していかなければいけないのでした。
・豊田真大の自伝『超個人的疑問』はこちらです。
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こんにちは。
本日は午後2時に起床しました豊田です。
居間へ出て、見渡すと誰もいない。
あれ、千鶴さんはどこだろう?
ハッ!
昨日は起されて怒ったので、何も言わずに悠聖と散歩へ行ったのかもしれない。
シーンと静まった家の中で、洗面をして、座禅を15分します。
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「こんにちは」
「おじゃましまーす!」
と4、5人の方々が、ゾロゾロと母親の家を訪れているようだ。
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気合を入れてリラックスして、そのままで、胸、胸とか集中していたら、肝心の、体を忘れてしまっていた(爆笑)
どうも落ち着きのない中で、今日も座禅を終えます。
いつもの如く、ブラック珈琲を淹れて、玄関脇へと読書に向かう。
母親の家の窓が開かれているので、先程の女性達との会話がちらほら聞こえてくるが、どうも、父親の介護のことに関して話しているようだ。
健康な息子が、煙草を吹かして、読書をしているのに、他の方々に介護をしてもらっているという申し訳ない気分で逃げ隠れしようかと思ってしまう・・・・・・orz
極めて情けない我ですw
そのまんま読書を続けていると「ただいま~」と千鶴さんが帰ってきた。
見ると買い物袋を2つ抱えている。
「買い物に行ってたの?」
僕はてっきり悠聖と散歩へ行っていると思っていたので、珍しく一人で買い物へ行ったのかなと不思議な感覚になる。
「うん、オトンもおるでなっ」
ああ、勢和多気のご両親が、遊びに来てくれたのか。
と、思っている内に、お母さんが見えたのでご挨拶します。
「怒るとアカンで、起さないでおいたからね!」と千鶴さんが嫌味っぽく言うw
こりゃ、なんとなく攻撃されている気分になるねえ。
そんなガヤガヤとした雰囲気の中で、読書を終え、ブログの更新をしています。
悠聖も多気のお父さんと帰ってきて、ワンワンと泣いていたが、遊んでもらって、落ち着いたようだ。
最近は、外に出ることが好きで、家の中に入ると、よく泣いている。
ブログを書き始めていると、千鶴さんがキャラメルを「お土産」と言って見せに来た。
どうも『鈴鹿ベルシティ』に、買い物に行っていたらしく、そこで楽天で1位とかいうキャラメルを試食して惚れ込んだようだ。
「僕は甘いもの食べてないよ」と言うと「まあ1個、2個なら大丈夫でしょ!」
「それくらいなら大丈夫かなあ」
さて本日は、実践しだした『感情ストップ』の効能について書きたいと思います。
これは、社会、他者から向けられた心理的不快感や、本能、性の働きから来る不快感を胸の上部にある感覚として捉えた瞬間でストップして、内面にある自己へと発展させないというテクニックであります。
昨日から、この感情の苦との直面を開始しているのだが、たった1日で、もう泣きそうになり、更に、なんかこう悲しくもなり、自分が落ちるってこういうことか! と、納得もしてきて、逃げ出したくなっています(爆笑)
これ、絶対無理だよね!?
無理、無理、これは無理に決まっている。
なんか方法を間違えているのではないか、掴まるところ、逃げるところ、隠れるところがあるのではないか。
と、何度も、自己内部だけの「思い」でアチコチの空想へと逃げ出して「方法」を考えていた、軟弱なる僕・・・・・・orz
これは「どうすれば病」との戦いでもあったのですね(苦笑)
しかし、リアルに「自尊心や虚栄心」を見るのは、マジで苦しい、キツイ。
ヤバイっw
「人に威張りたい」とか「オレは正しい」とか「約束を守っている」とか、なんだかんだと超勝手なる思い込みを抱えながら、反発している自分が、これでもかと認識される。
他者や自然に怒っているのは、完璧に、自分の性なのだ(大爆笑)
それを感覚の段階で無理矢理ストップさせようとすると、泣き崩れそうになる。
何かこう、子供の頃に苛められてワーンと大泣きしていた時のように、顔面が熱くなって泣き崩れそうになってくるのだ。
さすがに大人なので、それはしないのですが、気分的に、こう、なんともならない苦しさ、情けなさに晒されます。
この「こころの穢れ」が崩壊するまで踏ん張るのだ!!!!
そこを突き抜けると「悲しみ」のような「落ち込み」のような状態になって、どうも落ち着いてくるのだが、これが『諦めの境地』かもしれない。
確かに、落ち着いて静かな「こころ」になっている。
リアルなる事実に敗戦後の主人公のような、そんな、感覚である。
これは苦しみを、苦しみのままに受け取ることだろう。
肉体的感覚、もしくは社会(他者)からの心理的不快感→本能、または過去の記憶からくる恐怖の誘発→怒りの胸への突き上げ→エゴの壁(緩衝器)の発動→脳内爆発(理性喪失)となっているのだが、このエゴの壁から脳内爆発の作用を観察して止めるのだ。
実際の感覚としては、怒りが胸の上部で、苦しみの感覚のまま、止められている。
そこから内部へと展開しようとする、愚痴、やら、批判に、絶対行かせないのである。
目の前の事実の中に、無理矢理、自己を出そうとしている。
自己の内部活動を消失させる。
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苦しみを苦しみのままに受け止めるのが「ワーク」つまり「仕事」だなと思いました。
肉体の労働だけではなく心の仕事も毎日の生活全体に含まれていたのだ。
仕事したのは肉体と心と頭でなければならない。
全部が参加して、初めて、人間であるとグルジェフさんは言ったのである。
人間としての義務ではないと思っていたら、どうしても個人的自尊心から、嫌になってしまうに決まっている。
休むほうが楽に決まっているのだから怠惰の習慣に陥るだろう。
まあでも、自己を主張したくてしかたがない、子供のような、この自分自身が、落ちるための心理的ストレスは、そこら中に無料で転がっているではないか(爆笑)
こころの苦しみが全部それだ。
『苦』自体が、苦を滅尽させるための栄養素なのだwwwww
だから文字通り、非常に苦しい戦いだが、超えていくためには、苦しみを苦しみのままに、恐怖を恐怖のままに、そこにいるしかないだろう。
苦から、外れる、逃げる、隠れるというのが、脳内妄想なのであり、クンダバッファの「緩衝器」の正体なのである。
それが性的妄想やら、他者批判に繋がっているのだ。
これを『愛の欠如』と言うのである。
苦しみのままに、恐怖のままに、ここで開き直って生きる。
あるがままの自己が、今、ここに存在することでしかワークできないのである。
情けない自己を炙り出さなくては、真の人間、誠実な人間にはなれないようなのだ。
それでは、だめまのように『嘘』を生きる人になる。
他者は自己の弱点を常に突いてくれているのだから、自尊心や虚栄心のある間は、嫌なことばかりあって当たり前なのである。
苦しみは、乗り越えるべき、壁、破壊すべき空想なのだ。
生きて、超えるまで、永遠に与え続けられる、創造主の恩恵であるわけだ。
というわけで、僕、個人の、内面での密かなる幸福にとっては、恐ろしくも腹立たしいことではあるが、自我活動の落ちる「悲しみ」に触れるために『不快感』を胸の感覚でストップさせ、外に出るという『秘儀』に今日も挑戦していかなければいけないのでした。