豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

南無阿弥陀仏

2015-03-24 07:31:46 | 日記
・妻の『ダラックマのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。

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おはようございます。

本日は6時15分に起床しました。

昨夜、千鶴さんと言い合いしていたので、気分が優れません。

洗面しているとヌッと現れたのですが、まあ、特に反応せず、笑

座禅を15分している間も、どうも、この重い気を相手にしているような感覚で、どうしたものかと思っていた。

その後、玄関先で読書ですね。

コーヒーとたばこは、いつものごとく、自分を落着かせます。



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家へ入ると千鶴さんが作ってくれた朝食をいただきました。

ハムと目玉焼き、味噌汁、御飯。

まあ、朝御飯は作ってくれるから、感謝しとくかあ・・・・・・。


で、ブログの更新であります。

出勤までの時間がありませんので、慌てている訳ですが、何かあるかな。

そうそう、さっき本を読んでいて『阿弥陀』というのは、命の事なのですね。

つまり命の世界です。

よくお寺の看板なんかで『命を大切に』とか書かれていたりしますが、この命の事を阿弥陀様と言っていたのです。

ですから、南無阿弥陀仏とは、命の仏様に帰依しますという意味でしょう。

いや仏様の命に帰依しますという事だろう。

ですから、これは『自分自身に帰ります』という意味かもしれません。

生まれてからずっと人間やっているわれわれは、もはや、命である事を忘れているのでありますが、その、生きている自分、そして世界という全体性の、全一の命に帰る。

そうすると、その開かれた世界の中で、何があっても、それは与えられたものである。

けんかして怒ったり、褒められて喜んだり、何があっても、それは命の発露なのであるから、最初から、この命を仏様が生きている訳です。

ですから南無阿弥陀仏というのは、すごく明るい言葉なわけですね。

私を投出して、仏の命に帰る、まあ、消えうせるという訳ですから、これはインドなんかで言う神への明け渡しと一緒の意味です。

個人というものは、小さなちりのようなものですが、そのちりも、仏様の世界に投出されてしまえば、一三千大千世界の命を生きている訳で、この、事を、もう、昔の日本人は、みんな知っていたんだろう。

生きている事、命が、尊い。


こういった事は、自己改造とは関係ないと僕はさんざんに思うのです。

改善ですね。

とにかく、ああすれば幸せになれるというのは『嘘』ですよ。

幸せになるのは人に聞いてもしかたないでしょうwwwww

自分自身であることで、自分自身が落ちる事であります。

究極的に、何をやっても、人間として生きている幸せにある訳ですね。


考え方をいじっても、無理やりの笑顔を作っても、そんなものは無意味ではないかもしれないけれど、絶対的な安心の世界には行けないでしょう。

それは条件を与えられているんです。

新しい条件、それを獄舎であるとクリシュナムルティなんかが指摘したのです。

絶対安心の境地というのは、もう、何があっても、落着いているという事です。

どこに『落ち』『着いて』いるのかというと、開かれた命の世界。

つまり、眼前の自己なのです。