・妻の『ダラックマのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。
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おはようございます。
本日は6時15分に起床しました。
昨夜、千鶴さんと言い合いしていたので、気分が優れません。
洗面しているとヌッと現れたのですが、まあ、特に反応せず、笑
座禅を15分している間も、どうも、この重い気を相手にしているような感覚で、どうしたものかと思っていた。
その後、玄関先で読書ですね。
コーヒーとたばこは、いつものごとく、自分を落着かせます。
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家へ入ると千鶴さんが作ってくれた朝食をいただきました。
ハムと目玉焼き、味噌汁、御飯。
まあ、朝御飯は作ってくれるから、感謝しとくかあ・・・・・・。
で、ブログの更新であります。
出勤までの時間がありませんので、慌てている訳ですが、何かあるかな。
そうそう、さっき本を読んでいて『阿弥陀』というのは、命の事なのですね。
つまり命の世界です。
よくお寺の看板なんかで『命を大切に』とか書かれていたりしますが、この命の事を阿弥陀様と言っていたのです。
ですから、南無阿弥陀仏とは、命の仏様に帰依しますという意味でしょう。
いや仏様の命に帰依しますという事だろう。
ですから、これは『自分自身に帰ります』という意味かもしれません。
生まれてからずっと人間やっているわれわれは、もはや、命である事を忘れているのでありますが、その、生きている自分、そして世界という全体性の、全一の命に帰る。
そうすると、その開かれた世界の中で、何があっても、それは与えられたものである。
けんかして怒ったり、褒められて喜んだり、何があっても、それは命の発露なのであるから、最初から、この命を仏様が生きている訳です。
ですから南無阿弥陀仏というのは、すごく明るい言葉なわけですね。
私を投出して、仏の命に帰る、まあ、消えうせるという訳ですから、これはインドなんかで言う神への明け渡しと一緒の意味です。
個人というものは、小さなちりのようなものですが、そのちりも、仏様の世界に投出されてしまえば、一三千大千世界の命を生きている訳で、この、事を、もう、昔の日本人は、みんな知っていたんだろう。
生きている事、命が、尊い。
こういった事は、自己改造とは関係ないと僕はさんざんに思うのです。
改善ですね。
とにかく、ああすれば幸せになれるというのは『嘘』ですよ。
幸せになるのは人に聞いてもしかたないでしょうwwwww
自分自身であることで、自分自身が落ちる事であります。
究極的に、何をやっても、人間として生きている幸せにある訳ですね。
考え方をいじっても、無理やりの笑顔を作っても、そんなものは無意味ではないかもしれないけれど、絶対的な安心の世界には行けないでしょう。
それは条件を与えられているんです。
新しい条件、それを獄舎であるとクリシュナムルティなんかが指摘したのです。
絶対安心の境地というのは、もう、何があっても、落着いているという事です。
どこに『落ち』『着いて』いるのかというと、開かれた命の世界。
つまり、眼前の自己なのです。
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おはようございます。
本日は6時15分に起床しました。
昨夜、千鶴さんと言い合いしていたので、気分が優れません。
洗面しているとヌッと現れたのですが、まあ、特に反応せず、笑
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その後、玄関先で読書ですね。
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ハムと目玉焼き、味噌汁、御飯。
まあ、朝御飯は作ってくれるから、感謝しとくかあ・・・・・・。
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そうそう、さっき本を読んでいて『阿弥陀』というのは、命の事なのですね。
つまり命の世界です。
よくお寺の看板なんかで『命を大切に』とか書かれていたりしますが、この命の事を阿弥陀様と言っていたのです。
ですから、南無阿弥陀仏とは、命の仏様に帰依しますという意味でしょう。
いや仏様の命に帰依しますという事だろう。
ですから、これは『自分自身に帰ります』という意味かもしれません。
生まれてからずっと人間やっているわれわれは、もはや、命である事を忘れているのでありますが、その、生きている自分、そして世界という全体性の、全一の命に帰る。
そうすると、その開かれた世界の中で、何があっても、それは与えられたものである。
けんかして怒ったり、褒められて喜んだり、何があっても、それは命の発露なのであるから、最初から、この命を仏様が生きている訳です。
ですから南無阿弥陀仏というのは、すごく明るい言葉なわけですね。
私を投出して、仏の命に帰る、まあ、消えうせるという訳ですから、これはインドなんかで言う神への明け渡しと一緒の意味です。
個人というものは、小さなちりのようなものですが、そのちりも、仏様の世界に投出されてしまえば、一三千大千世界の命を生きている訳で、この、事を、もう、昔の日本人は、みんな知っていたんだろう。
生きている事、命が、尊い。
こういった事は、自己改造とは関係ないと僕はさんざんに思うのです。
改善ですね。
とにかく、ああすれば幸せになれるというのは『嘘』ですよ。
幸せになるのは人に聞いてもしかたないでしょうwwwww
自分自身であることで、自分自身が落ちる事であります。
究極的に、何をやっても、人間として生きている幸せにある訳ですね。
考え方をいじっても、無理やりの笑顔を作っても、そんなものは無意味ではないかもしれないけれど、絶対的な安心の世界には行けないでしょう。
それは条件を与えられているんです。
新しい条件、それを獄舎であるとクリシュナムルティなんかが指摘したのです。
絶対安心の境地というのは、もう、何があっても、落着いているという事です。
どこに『落ち』『着いて』いるのかというと、開かれた命の世界。
つまり、眼前の自己なのです。