・初めての方は、こちらもどうぞ!→『ようきてな』
・豊田真大の自伝『超個人的疑問』はこちらです。
・嫁の『ダラックマのブログ』も良ければ一緒にお読みください。
こんにちは。
今日もポカポカ陽気で、気分が良くなりますね。
もうすぐ春だなあ。
ああ、そういえば千鶴さん(妻)が悠聖、僕の母、叔母と一緒に、鈴鹿にある公園で梅の花を見てきたようでした。
数日前の話ですが・・・・・・。
彼女も悠聖もそうですが、花とか動物を見ると、凄く喜ぶんですよね。
僕はあまり、感動しないのですが、さいきんは影響を受けてきたのか、微かに、心が喜ぶときがあります(笑い)
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今朝というのか、今日は14時に起きて、また洗面と座禅ですね。
この習慣、なかなか、いいものです。
そのあとで読書をするのですが、本が無かったので探し回るw
いつものとおりにブラックコーヒー&煙草であります。
ちなみに『エコー』という激安煙草しか、吸えない環境であります(爆笑)
お給料の稼ぎが少ないので、仕方がありませんが・・・・・・。
本を読みながら、空だね、空、満ち満ちた変幻無限の空だねーとか思います。
いまここで時間が流れて、自他が交流した社会があって、宇宙があって、大地があって、まあ、いろいろと流れている、動いているのが、この空のキャンパスの上なのですが、この空はいくら動いても減らない、まあ、空っぽですから、当たり前ですがwwww
でも、この空と変幻無限の色というのは、二つでひとつなのです。
世の中は幻想「のようなもの」なのであります。
記憶の中に紡がれているのですから、まあ、思いによって形成された、価値付け、そのものを維持し続けることは不可能ですが、ここには色もあるのです。
煩悩があって無欲があるのですが、どちらも目指さない、放っておくというのが、極端に偏らないことですよ。
これと同じで空と色は一体なのですから、空といえば嘘であり、色といえばこれも嘘なのであります。
ふたつあってひとつ!
縁起なのであります、相依性なのですね。
でも、なかなか、ここが理解が難しいのは、個性を通して、人が人を見たり、物を見たりとかしているからなのです。
『真実世界の側からの風景』
これが、縁起や空についての理解をモタラスノデアリマス。
ですから、座禅とか、まあ、瞑想禅定、哲学に関する読書等々を全くしたことが、ない人には、この感覚を掴むことは難しいかもしれません。
だからと言って、それが、その人が仏ではないという意味ではないです。
その人は、法と一体であり、そこから外れたことはありませんので、たとえ、どれだけ煩悩の苦しみに入っていようと、仏なのです。
苦しみから逃れようとモガクのが煩悩ですが、それは、自然なことなので、あってもいいのでありますが、その煩悩が、極端になった時に、個人の心が地獄の業火に焼かれてしまうのである。
極端を避けるということは『腹、八分目』という名言を守るということですね。
なんという名言なのでしょうか!
『知らぬが仏』とか『腹、八分目』とか、昔の人が言っていたことの中には、なかなかに鋭いこと、世間の知恵が詰まっているようです。
そういえば、グルジェフさんも昔からある諺や格言を非常に大切にしたらしいですね。
何百年の時間の中で消え去らなかった『格言』というのは、ほんとうに生活の中の真理をさしているのかもしれません。
『ベルゼバブの孫への話』の序文に出てくる『もし、馬鹿騒ぎをするのなら、細かいことには拘るな!』は大好きです(爆笑)
えーっと、なんの話をしていたんだっけ?
ああ、空か。
ええっと、まあ、ここにある私は、無「のようなもの」なのです。
その、無「のようなもの」は全体であるのです。
そうして、その全体であるものを「空」といいます。
そして、この「空」の中に世界や諸々があるのですが、これは、分かれていないのです。
つまり、無だけとか、空だけとか、実相だけといった風に分かれない。
それを実相を否定して空にたどり着くのだとか、無になるのだとか・・・・・・。
どだい不可能なことをしている。
また、達成したとか、抜かすwwwwwwww
だから、この、眠れる私は、法と縁起しているのであって、自灯明、法灯明というのは、この2つがあってひとつなのである。
自らと法は、縁起、していて、どちらか一方だけでは、存在できないのだ。
色があって識がある、識があって色がある。
あなたがいるから私がいる、私がいるからあなたがいる。
悟りというのは、このように動きのある中での不動なのである。
言葉にすると矛盾しているようだが、本当に、矛盾したことが同居しているのが悟りなのであり、それを知るには、何もしないでリラックス、ですわ(爆笑)
もう既に実現されているんです!!!!
なんにもしないで、あるがまま。
なんにもしないで、いまここ。
なんにもしないで、諸法実相。
なんにもしないで、自他一如。
なんにもしないで、永遠の生命なのだw
えーっと、また、煙草吸ってきました。
うーん、心の奥にですね、リアルに在るのです。
不動の空間があって、そこに重心を置くように意識すると、動きと不動が同居して「いるような」感じになるのです。
そうして、座禅でも同じですが、不動でいる中に動きが浮かび上がっているんです。
その動きと不動、煩悩と涅槃、色と空は、どちらかを目指すものではなく同居させなければ、というか、同居しているところから離れないのであります。
まあ、こういうようなことを書いて、時間を無駄にしているわけですが、このような情報は、たくさんの書籍に書いてあります。
僕よりも本当に優れた人たちが、たくさん、世界にはいて、もっと深い見解を持っている人も、もちろん、まあ、ほとんど全員が、持っているでしょうw
しかし、このことが、表現しようとしている人となると、とても少ないのです。
もっと深い理解をした人は、語ろうとしないのです!!!!
なぜか分からないのですが、それを人に伝えることの無駄のようなものを感じるのでしょうか・・・・・・。
絶対に、世界には、たくさんの有益な情報を持っている人がいるのだと、僕は思いますが、まあ、語れば、どこかに偏りがでるので、嘘を言っていることになる。
それでも自分の体験は、体験なので、それが、役に立つ可能性がゼロではない。
っていう、また屁理屈であります。
千鶴さん(妻)が、トンテキ作ってくれたので、とりあえず食べてきます!
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こんにちは。
今日もポカポカ陽気で、気分が良くなりますね。
もうすぐ春だなあ。
ああ、そういえば千鶴さん(妻)が悠聖、僕の母、叔母と一緒に、鈴鹿にある公園で梅の花を見てきたようでした。
数日前の話ですが・・・・・・。
彼女も悠聖もそうですが、花とか動物を見ると、凄く喜ぶんですよね。
僕はあまり、感動しないのですが、さいきんは影響を受けてきたのか、微かに、心が喜ぶときがあります(笑い)
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今朝というのか、今日は14時に起きて、また洗面と座禅ですね。
この習慣、なかなか、いいものです。
そのあとで読書をするのですが、本が無かったので探し回るw
いつものとおりにブラックコーヒー&煙草であります。
ちなみに『エコー』という激安煙草しか、吸えない環境であります(爆笑)
お給料の稼ぎが少ないので、仕方がありませんが・・・・・・。
本を読みながら、空だね、空、満ち満ちた変幻無限の空だねーとか思います。
いまここで時間が流れて、自他が交流した社会があって、宇宙があって、大地があって、まあ、いろいろと流れている、動いているのが、この空のキャンパスの上なのですが、この空はいくら動いても減らない、まあ、空っぽですから、当たり前ですがwwww
でも、この空と変幻無限の色というのは、二つでひとつなのです。
世の中は幻想「のようなもの」なのであります。
記憶の中に紡がれているのですから、まあ、思いによって形成された、価値付け、そのものを維持し続けることは不可能ですが、ここには色もあるのです。
煩悩があって無欲があるのですが、どちらも目指さない、放っておくというのが、極端に偏らないことですよ。
これと同じで空と色は一体なのですから、空といえば嘘であり、色といえばこれも嘘なのであります。
ふたつあってひとつ!
縁起なのであります、相依性なのですね。
でも、なかなか、ここが理解が難しいのは、個性を通して、人が人を見たり、物を見たりとかしているからなのです。
『真実世界の側からの風景』
これが、縁起や空についての理解をモタラスノデアリマス。
ですから、座禅とか、まあ、瞑想禅定、哲学に関する読書等々を全くしたことが、ない人には、この感覚を掴むことは難しいかもしれません。
だからと言って、それが、その人が仏ではないという意味ではないです。
その人は、法と一体であり、そこから外れたことはありませんので、たとえ、どれだけ煩悩の苦しみに入っていようと、仏なのです。
苦しみから逃れようとモガクのが煩悩ですが、それは、自然なことなので、あってもいいのでありますが、その煩悩が、極端になった時に、個人の心が地獄の業火に焼かれてしまうのである。
極端を避けるということは『腹、八分目』という名言を守るということですね。
なんという名言なのでしょうか!
『知らぬが仏』とか『腹、八分目』とか、昔の人が言っていたことの中には、なかなかに鋭いこと、世間の知恵が詰まっているようです。
そういえば、グルジェフさんも昔からある諺や格言を非常に大切にしたらしいですね。
何百年の時間の中で消え去らなかった『格言』というのは、ほんとうに生活の中の真理をさしているのかもしれません。
『ベルゼバブの孫への話』の序文に出てくる『もし、馬鹿騒ぎをするのなら、細かいことには拘るな!』は大好きです(爆笑)
えーっと、なんの話をしていたんだっけ?
ああ、空か。
ええっと、まあ、ここにある私は、無「のようなもの」なのです。
その、無「のようなもの」は全体であるのです。
そうして、その全体であるものを「空」といいます。
そして、この「空」の中に世界や諸々があるのですが、これは、分かれていないのです。
つまり、無だけとか、空だけとか、実相だけといった風に分かれない。
それを実相を否定して空にたどり着くのだとか、無になるのだとか・・・・・・。
どだい不可能なことをしている。
また、達成したとか、抜かすwwwwwwww
だから、この、眠れる私は、法と縁起しているのであって、自灯明、法灯明というのは、この2つがあってひとつなのである。
自らと法は、縁起、していて、どちらか一方だけでは、存在できないのだ。
色があって識がある、識があって色がある。
あなたがいるから私がいる、私がいるからあなたがいる。
悟りというのは、このように動きのある中での不動なのである。
言葉にすると矛盾しているようだが、本当に、矛盾したことが同居しているのが悟りなのであり、それを知るには、何もしないでリラックス、ですわ(爆笑)
もう既に実現されているんです!!!!
なんにもしないで、あるがまま。
なんにもしないで、いまここ。
なんにもしないで、諸法実相。
なんにもしないで、自他一如。
なんにもしないで、永遠の生命なのだw
えーっと、また、煙草吸ってきました。
うーん、心の奥にですね、リアルに在るのです。
不動の空間があって、そこに重心を置くように意識すると、動きと不動が同居して「いるような」感じになるのです。
そうして、座禅でも同じですが、不動でいる中に動きが浮かび上がっているんです。
その動きと不動、煩悩と涅槃、色と空は、どちらかを目指すものではなく同居させなければ、というか、同居しているところから離れないのであります。
まあ、こういうようなことを書いて、時間を無駄にしているわけですが、このような情報は、たくさんの書籍に書いてあります。
僕よりも本当に優れた人たちが、たくさん、世界にはいて、もっと深い見解を持っている人も、もちろん、まあ、ほとんど全員が、持っているでしょうw
しかし、このことが、表現しようとしている人となると、とても少ないのです。
もっと深い理解をした人は、語ろうとしないのです!!!!
なぜか分からないのですが、それを人に伝えることの無駄のようなものを感じるのでしょうか・・・・・・。
絶対に、世界には、たくさんの有益な情報を持っている人がいるのだと、僕は思いますが、まあ、語れば、どこかに偏りがでるので、嘘を言っていることになる。
それでも自分の体験は、体験なので、それが、役に立つ可能性がゼロではない。
っていう、また屁理屈であります。
千鶴さん(妻)が、トンテキ作ってくれたので、とりあえず食べてきます!