豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

なんちゃって真我覚醒w

2015-03-04 15:07:23 | 読者に人気の記事
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こんにちは。

本日は春めいた陽気で、ポカカポカしてて気持ちいいですね^^

夜勤3日目、今日も14時に起きて、洗面、座禅の定番コースです。

「思い」のフルコース15分間、味わっていましたwwwww

別に思いが沸いてくるのが悪いのではなく、実体に戻るのが善いわけでもないのですが、やはりスコーンと抜けきったときの気持ちよさを味わいたくなりますね、笑

そのあとで煙草とコーヒーセットで読書を味わいます。

印象というものは、普段は気にしていませんが、とても人間の心理状態に影響を与えているので、できるだけ、善い内容のものを眼にしたほうがいいと思います。



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千鶴さんは洗濯物を干しながら「エイ」とか言っている。

「まったく理屈の多い男なり」とか言いながら「こんどは座禅と呪文を混ぜるといいなりー」とか適当なことを言っている(爆笑)

何をしているのか聞くと「仕事がうまくいくように呪文を唱えている」らしい、笑

僕の仕事が?

「ちづちゃんの仕事がうまくいくように」だそうですwwwww

まあ、思いをこめるのは、素晴らしいもんですが、なかなか楽しいですな。

ああ、そういえば、祈りと姿勢に関しては、ウスペンスキーだったか、グルジェフさんだったかが、本に書いていて、ある建築物の中で、特定の姿勢をとり、それをいくつも、変えたりしていくのは、魔術だみたいなことを書いていたような気がする。

んー、記憶あいまい。

とにかく過去の宗教儀式は、その本来の意味を、全く忘れられているが、形だけは、驚くほど正確に伝えられている? ・・・・・・らしいです。


で、そのあとにブログを更新、しております。

しばらく続いたので、最近は、楽しみになってきている。

まあ、言いたい放題なわけですが、このような陽気になってくると気分が良くなってくるので、もっと色々と言いたい放題したいなあと思いますw


そこで「真我」について久しぶりに書いてみようと思います。

これは心のことですね、心が空であり、そこに変幻無限の縁起した宇宙が展開していることを見て「真我」だ「真我」だというわけですが、つまり、これは、そのところに、我を投影してみているのです。

この投影された我が、どこにいるのかと探ると、胸の奥にいるのであります。

胸の奥にいる我は普段は「我」という意識すらなく、コンコンと眠っておられるわけですが、ここが、おおっ、わしゃ眠ってましたがなあと眼を覚ますことを、真我の覚醒と言っているわけです。

つまり心が心の展開に気がつく、夢を見ている人が、夢見てるじゃん俺という、本来の自分に気がつくのと似ている状態ですね。

ここに気がつくと、見るものは、見られるものという、よくスピリチュアルで言われていることに気がつくのであり、見るものすべてが己の投影となり、大笑いするのと、心の底から可笑しさが、また、繊細な喜びのような熱いものがこみ上げてきて、泣いたり、なにかこう愛に包まれたような状態に数日間だけなりますwwwww

ここを体験した人が、これは「悟りだー」と言うのであります。

これはハートに気がついた状態です。

なんとハートが眠っているというのは、単に、人格の抑制が効きすぎていた人なのです。

だから、まあ、現代人は、ほぼ全員、この「真我」ちゃんが胸の奥で眠ってしまっており、これが、眼が覚める、というか正常に機能したら、とても素晴らしいという体感を持つのであります。

これは自然にある人間の感情機能の復活が劇的過ぎて、愛によって、自他の分離が溶ける状態が一定期間続いているのです。

昨日書いた、感情の問題に、圧倒的自信が必要だという部分と似ています。

プラスの側に、とてつもなく傾いたのであります。

そこで、心はもちろん世界と縁起していて、この世界には自己しか元々いないのですから、この世界は「真我」の見ていた夢だったのだ、私の正体は、この心の奥の「愛」のようなものだったのだと思うのですね。


しかしですね!

救われませんよ、それだけでは、となる人が多いはずだと想像します。

なぜなら、ここでは「我」が残っているからなのです。

この「真我」にしても「観照者」にしても、どちらもが、対象化されうるものである限りにおいては、己と他という、分別が働いているのです。

ですから、この状態で、全一の自己といっても、そこには己の超絶なる拡大が生まれているのでありますから、縁起や法が全く見えない状態に突入してしまったのです。

我は宇宙なりと気がついた状態から、真我の覚醒の時点で、だいたいの人が、そこのところこそが、すべてだと思うのであります。

自分しかいないの意味は、これではありません。

法の側が、自己なのであり、普段の意味での、自己は、この法と不二であるという理解があったときに、個である私が、縁起の中で捉えられることなのです。

ここでは「我」が繋がりの中に相依性の中に一体として見られているのです。

つまり区別や差別が一切無く、認識は追わないので、そこには、単なる普通の日常生活があるのですが、それを「あるがまま」に見るという状態なのです。


しかし、このハートに気がつくということが、もしかしたら「悟り」に関して役に立つことがあるかもしれません。

これは明け渡しを通じてモタラサレルノデス。

明け渡しは人生に絶望した人が、呆然と自らの抵抗を手放した時に、訪れるのです。

あ、ちょっとまった、これは段階があります。

最終的には「明け渡し」ですが、その前にいろいろあるので、一応、書いておこうと思いますが、これは「悟り」とは何の関係もない別物のお話です。

この世界の中の探求なのですwwwww

関係ないとは言え、このところは僕は、ずっと探していたわけですから、そこが、例えば、もしかしたら、何かの役に立つかもしれないと思うのであります。

ああ、まだ違う、これではないという確信を得るとかの役に立つかもしれない。

だから、この超暖かい至福に触れたとしても、それは、人間本来の、自然なる感情、ハートが目覚めて空である世界に気がついた状態であって、それは、関係ないのです。

関係ないけれど、そこを通過しないと、ハートの感覚がないので、感情を突き放して、あるがまま、来るがままに見るという離れ技が使えない可能性があると思ったのです。

あくまで一旦離れて、また日常の奇跡に気がつく、生きている奇跡、諸行無常の中の瞬間瞬間の奇跡に気がつくことなのです。

別に、それがあっても、なくても、悟りには関係ないのです!!!!!

誰もが最初から、全員、悟っている。


まあ、それはいいとして。

まず自己を見る。

次に見ている自己を見る。

次に見ている自己を見ている自己が見られるという段階があるのですwwwww

全く意味不明だな・・・・・・。


しかし安心してください、この三段階で終了で、その先の見ているは世界にありません、笑


まず一番最初の段階の自己を見るは、普段の生活の中で、行為に自分を含めるということであります。

例えば今、僕は、これを書きながら、コーヒーを飲んで、パソコンの前でタイピングしているわけですが、そのときに、自分が見ているものに一体化して、自分自身を忘れていますね。

これが自分が含まれてない状態です。

自分が含まれている場合は、自分の動きや姿勢、また心の状態、想念の状態等々が、その、今、行われている中に含まれるのです。

最初、慣れていないと、非常に居心地が悪いですが、辛抱してやりますw

なにかしているときに常に自分の体も、感覚も、まあ、その他、自己に関する一切が含まれるようにするのです。

○が世界(対象)だとして、普段は○←自己という風に、世界の中に自己が含まれていないのであり、自己は対象化されていないのです。

そこに○の内に自己を含めるのです。

これが、自覚とかなんやら、いろいろです(爆笑)


で、そうなるとこの○の中に含まれた自己をつまり、見ている自己を見ているという状態になっているわけですが、それが、観照意識だとか、客観意識だとか言われるものです。

この見ている自己を見ている自己は、まあ、なんだろう電気みたいなものです。

電気というか電燈、灯りです。

それが、まあ、普段からあるけど忘れているわけですね。

ほれで、そこに、気がつくのであります。

ああ、なんだ、見ている自己を見ている自己がいるではないかと!

で、その意識というか光のような注意の力の元に気がつくのが第2段階ですね。

これは、簡単にできると思いますが、地味に続けないと難しかったです。

10年くらい気がつきませんでした(爆笑)


で、その、自己を客観視する自己が、見られるのです!

見ている自己を見ている自己が見られるのです。

この見られるという表現がポイントですよ。

つまり、この世界を投影している客観自己が、気づかれるのです。

真我に気づかれるのですが、それは胸の奥にあります。

胸の奥にある、この『己』が目覚めて、おおー、オレじゃないかーと言うのです。

このオレが見ていたのです夢を、夢というか世界ですね。

まあこの投影された光による自己と世界がの光源が、己だったのです。

この己は胸の奥でスヤスヤと眠っている。

この第三段階は酷ですよ・・・・・・。

ここで絶望が必要になってくるのです。

ほんとうに洒落にならないくらい本気で、ドンドン絶望していきますよ。

出来事に絶望してしまうのです。

そうして、この見ている自己や、それを見ている自己を見ている自己なんかが、もう、苦しくて苦しくてという状態を見ます。

もう最終的にストンと一旦抜けるのであります。

ここで世界が、トンネルの向こう、望遠鏡の向こうにあるような状態に一瞬だけなります。

それから宇宙がちっちゃな遠景のように見えるという体験をどこかでします。

まあ、それ以外にも人それぞれ、その自己の抱えている絶望に従って、なんらかの絶望が絶望している状態になっていく。

しかし、これに客観的な自己、つまり見ている自己を見ている自己は、影響を受けないのです。

そうして、この自己はドンドン世界から離れますが、最期には、この客観視する自己の側を世界の中心にある「真我」が見つけるのです。

目撃するのです!!!!

この目撃した瞬間に「なんだ、そうだったのかーーーーー!!!!!」と思いますよ、笑


でも、それは、まあ数日だけのことだと思います。

なにしろ、この真我というものは、普通の感情のことなのですからwwwww

人間の本来の生まれもっている心なのです。


そうなると、その、色々様々がですね。

実は来ては去っていく、つまり諸行無常でしかなく、また、この何もかも一切が、単に最初からこのようにあって、それ以外ないということに気がつく段階にいくのです。

が、これは本当は必要ないことなので、お忘れなく!