・妻の『ダラックマのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。
ブログ読者に人気の記事
こんにちは。
本日は午前10時半ごろに起床しました。
体調が優れない中、洗面をして座禅を15分します。
力を抜いて、お任せして、良質な感覚と幸せの中にいる。
生まれたての頃の、朝の光にふれているように、自然の雰囲気に解ける。
自分を鍛えるのではない。
手放すのが、座禅なのである。
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なんちってw
えーっと、そのあとで、コーヒーを淹れて読書ですね。
たばこも吸う。
外は快晴で太陽の光がポカポカと体を温めてくれる。
鳥のさえずりが聞こえてくる。
目の前の樹は、恐らく、1年でいちばん、花が咲き誇っているような日であろう。
人が隣の道を歩いていく。
菜の花が畑に咲いている。
雀が2羽、砂場の向こうで、じゃれあって遊んでいる。
静かな中で、読書を終えます。
母親がどこかから帰ってきて洗濯物と弁当箱を持っていく。
千鶴さんが帰省しているので、どうも、生活が安定しない。
偉大なる千鶴様wwwww
で、ブログの更新であります。
よく勘違いされるのが、特別に成ることです。
人とは違った存在が、超人が、悟った人と思われる。
そんなことはないと思いますよ、笑
同じである。
同等であるということに気がつくわけであります。
何かに成るために読書や座禅をしていると、力が入ります。
また計算が働いてきます。
すると残念なことに、特別な人が、出てくるのです。
『俺』が悟ったなどと言うwwwww
俺が悟っているときは、それは、失われているんです。
リラックスして、深刻さがなにもない。
真剣に、この、空間に体が溶け込んでいる、心が溶け込んでいることなんです。
どうして、そんな風になるのかというと力を抜いて、『俺』のコントロールをなくしているからなのです。
だから、この状態を『俺』が認識して、分析して、あーだ、こーだやっているということは、それは、落ちていないということの証拠です。
こうすれば、悟れるとか、ないんです。
昨日も書きましたが『緊張』を解くことには様々な方法がある。
どれでもいい。
しつこいですが、俺が悟ったは、新たな自我の活動ですよ。
終わりなき修行は、つまり、なんども帰ることなのであります。
悟った己が再び、自然に帰らないといけない。
しかし、肉体を持って、生きている限り、迷い、怒り、貪る。
再び気づいて帰るのであります。
だから完璧な超人なんていないのであります。
そういう人は、そのように見せているだけです。
気づきの速度が半端なく、瞬時の人は、そうできるでしょう。
己の迷いだと思わないで、迷いがあると見ているからですね。
このような人は、自己と同一化していないのです。
って、また、概念的に発展させようとしてしまいましたが、要するに体の力を抜いていくことなのですよ。
緊張を解いて、いますぐ、リラックスする。
その方法は、自己の『思い』を追いかけないで、手放すことなのです。
それは、心にある、穢れを、落としていくことなのです。
ここで『特別に成ろう』という意識があると、邪魔になるんです。
なんでもない平凡な、いや、罪悪感でいっぱいの、この自分のままで、いいんです。
恐怖や良心の呵責からくる『悲しみ』を流していくことが、いいんです。
これは色々あるじゃないですか。
いつか自分も死んでしまうとか、あんな悪いことをして、どうしようもない救われない自分だとか、まあ、いっぱい抱えている。
それが「思い」として「計算」として、どうしようかと迷わせている。
この思いは感情中枢が思考中枢を乗っ取っているわけです。
しかし、この感情中枢も実は、本能中枢に乗っ取られていたり、動作中枢に乗っ取られていたりするんです。
完全中立なのは、性と、高次感情、高次知性です。
これは生命力と、感受力(気づき)と、純粋意識のことであります。
そして、この生命力と繋がるのは、体なのです。
体が寛ぐことで、頭を離れた感受力が、気づきとして働き出し、この気づきの質が高まることで、純粋意識が現れる。
もともとあるのだが、認識内に入るということである。
通常の意識は、思いによって曇らされているから、普段働いている、繊細な印象に無頓着になっているのです。
植物や動物に対する愛。
また地球や宇宙、天と地にある自然の働きに対する感動。
そういったものは、繊細なる感受性が働いたときに、自分の中に踊りこんでくる。
向こう側から来るんです。
自分がしているのではなく、緊張が解ければ、本来の自己が顔を出すのです。
勝手に!
そこには最初からある、風景、眼前の風景が、そのままある。
この、そのままの、なんの変哲もない、ただの日常。
全く特別ではなく、よくありがちな、平凡な人間としての私。
その、私が、世界だったのです。
そして、この身体の世界は、意識と心が、交錯している出会いの場です。
意識は心の力から生まれ、その心の力は、他者と別次元で、出会っているんです。
不可視の背面空間。
ここにある次元において、生きているんです。
みんなが、そこにいて、生きていても死んでいても、そこにいるんです。
この別次元から働く、心の力が、真の自己が生きている場所です。
しかし、それは分かれていないのです。
そこだけを分離して、背面の別次元だけというのはないんです。
それは認識の内にある場合は統合作用が起こっていない証拠です。
その見ている自分、認識している自分が落ちた時に、統合される。
別次元の心の力→純粋意識→世界→体→心→頭です。
この内の心と頭が、迷いの世界に入ったのが『自我』の形成なのです。
しかし、この自我は別次元の心の力と純粋意識が、あることを見れない。
そして、見た時に認識も出来ない。
認識している場合は、あとから、それを見ているんです。
体が、世界に溶け込んだ時に、生命力が流れ込んで来て、この力が、天と自己の同一性、つまり世界に気づかせる。
そして、世界=自己が、また手放された時に、意識が現れる。
そして、意識が心に溶け込んだ時に、つまり融合された時に、真我が起きるのだ。
別次元で、目覚めるのですよ。
わしゃあ寝てましたがなあとwwwww
まあ、それは冗談です。
そこには言葉なんか、ありません。
この認識している自己がいなくなったとき、別次元の心と意識と、世界と、体と、心と、頭は、全部、ひとつだと気がつくのです。
そうして目の前を見ると、今まで分離していた、別次元の心と、眼前の風景が、合体するんです!!!!!
それが覚醒です。
世界が空であり、空が世界である。
そして、そこには、分離がないのである。
目の前の自然こそが空である己の実体だったのです。
だから、私を生きているのは、あなたであって、あなたを生きているのが私。
と理屈をつけることも出来ます。
これは、しかし、また手放されなくては成らないですねwwwww
体の力は凄いものです。
その体に生命が宿っているお陰で、この生命力を通して、体験がある。
この生命は天の意識の内に芽生え、その天と世界のエネルギーの中に、心がある。
心は自己の本体である。
この自己の本体である心は、分離されない。
全ての他者、つまり出会ったことすらない、ありとあらゆる全ての他者と交錯、つまり出会っているのです。
この他者の純粋意識が全宇宙です。
この全宇宙はひとつなのです。
ひとつの実体のない、名づけようもない、エネルギーの働き。
すべてがひとつの、ここから、変転している。
だから、違いがあるのは、その、変転の結果である。
変転の結果は、実は、その空性と別物ではないのです。
その別物ではないものを、別物とさせているのが、認識であるのです。
分別です。
しかし、こんなことを書いても役に立たない。
つまり、方法こそが大事なのであって、概念は、つまり事実を言葉にしてしまおうということは、伝達の働きをしない可能性が大である。
眼前の自己を生きるという言葉も虚しいのだ。
実際に、そこに、解放されるには、緊張を取り除くことである。
こころとからだの力を抜くことだ。
このリラックスするということを、実現するために、座禅する。
理解するのは自分ではない。
自分が、コントロールしているという、その自己が安心の中で、静まったとき。
静まって安らかに、在るとき、勝手に起こるのだ。
自分は、何もしていないときに、自然の側が、闇を消去するのである。
闇が光を知らないのである。
光を知ったなら、その光の側が、闇を消去する。
もしも部屋の壁が閉じられていなければ、光は、勝手に闇を消去するのである。
それが融合であり、自我の終焉なのである。
しかし、このことが、終わりではないのである。
また、なんども、なんども、起こる。
生きている限り、何千万回も、帰ってくるようにする。
悟りは、帰ることの、融合の、つまり『道』の始まりなのである。
終わってしまうことはなく、永遠に、これが生きている意味なのだ。
迷っても帰る、怒っても帰る、貪っても帰る。
ずーっと「思い」を手放していくということである。
煩悩が、なくなるわけが、ないのだから(爆笑)
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こんにちは。
本日は午前10時半ごろに起床しました。
体調が優れない中、洗面をして座禅を15分します。
力を抜いて、お任せして、良質な感覚と幸せの中にいる。
生まれたての頃の、朝の光にふれているように、自然の雰囲気に解ける。
自分を鍛えるのではない。
手放すのが、座禅なのである。
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えーっと、そのあとで、コーヒーを淹れて読書ですね。
たばこも吸う。
外は快晴で太陽の光がポカポカと体を温めてくれる。
鳥のさえずりが聞こえてくる。
目の前の樹は、恐らく、1年でいちばん、花が咲き誇っているような日であろう。
人が隣の道を歩いていく。
菜の花が畑に咲いている。
雀が2羽、砂場の向こうで、じゃれあって遊んでいる。
静かな中で、読書を終えます。
母親がどこかから帰ってきて洗濯物と弁当箱を持っていく。
千鶴さんが帰省しているので、どうも、生活が安定しない。
偉大なる千鶴様wwwww
で、ブログの更新であります。
よく勘違いされるのが、特別に成ることです。
人とは違った存在が、超人が、悟った人と思われる。
そんなことはないと思いますよ、笑
同じである。
同等であるということに気がつくわけであります。
何かに成るために読書や座禅をしていると、力が入ります。
また計算が働いてきます。
すると残念なことに、特別な人が、出てくるのです。
『俺』が悟ったなどと言うwwwww
俺が悟っているときは、それは、失われているんです。
リラックスして、深刻さがなにもない。
真剣に、この、空間に体が溶け込んでいる、心が溶け込んでいることなんです。
どうして、そんな風になるのかというと力を抜いて、『俺』のコントロールをなくしているからなのです。
だから、この状態を『俺』が認識して、分析して、あーだ、こーだやっているということは、それは、落ちていないということの証拠です。
こうすれば、悟れるとか、ないんです。
昨日も書きましたが『緊張』を解くことには様々な方法がある。
どれでもいい。
しつこいですが、俺が悟ったは、新たな自我の活動ですよ。
終わりなき修行は、つまり、なんども帰ることなのであります。
悟った己が再び、自然に帰らないといけない。
しかし、肉体を持って、生きている限り、迷い、怒り、貪る。
再び気づいて帰るのであります。
だから完璧な超人なんていないのであります。
そういう人は、そのように見せているだけです。
気づきの速度が半端なく、瞬時の人は、そうできるでしょう。
己の迷いだと思わないで、迷いがあると見ているからですね。
このような人は、自己と同一化していないのです。
って、また、概念的に発展させようとしてしまいましたが、要するに体の力を抜いていくことなのですよ。
緊張を解いて、いますぐ、リラックスする。
その方法は、自己の『思い』を追いかけないで、手放すことなのです。
それは、心にある、穢れを、落としていくことなのです。
ここで『特別に成ろう』という意識があると、邪魔になるんです。
なんでもない平凡な、いや、罪悪感でいっぱいの、この自分のままで、いいんです。
恐怖や良心の呵責からくる『悲しみ』を流していくことが、いいんです。
これは色々あるじゃないですか。
いつか自分も死んでしまうとか、あんな悪いことをして、どうしようもない救われない自分だとか、まあ、いっぱい抱えている。
それが「思い」として「計算」として、どうしようかと迷わせている。
この思いは感情中枢が思考中枢を乗っ取っているわけです。
しかし、この感情中枢も実は、本能中枢に乗っ取られていたり、動作中枢に乗っ取られていたりするんです。
完全中立なのは、性と、高次感情、高次知性です。
これは生命力と、感受力(気づき)と、純粋意識のことであります。
そして、この生命力と繋がるのは、体なのです。
体が寛ぐことで、頭を離れた感受力が、気づきとして働き出し、この気づきの質が高まることで、純粋意識が現れる。
もともとあるのだが、認識内に入るということである。
通常の意識は、思いによって曇らされているから、普段働いている、繊細な印象に無頓着になっているのです。
植物や動物に対する愛。
また地球や宇宙、天と地にある自然の働きに対する感動。
そういったものは、繊細なる感受性が働いたときに、自分の中に踊りこんでくる。
向こう側から来るんです。
自分がしているのではなく、緊張が解ければ、本来の自己が顔を出すのです。
勝手に!
そこには最初からある、風景、眼前の風景が、そのままある。
この、そのままの、なんの変哲もない、ただの日常。
全く特別ではなく、よくありがちな、平凡な人間としての私。
その、私が、世界だったのです。
そして、この身体の世界は、意識と心が、交錯している出会いの場です。
意識は心の力から生まれ、その心の力は、他者と別次元で、出会っているんです。
不可視の背面空間。
ここにある次元において、生きているんです。
みんなが、そこにいて、生きていても死んでいても、そこにいるんです。
この別次元から働く、心の力が、真の自己が生きている場所です。
しかし、それは分かれていないのです。
そこだけを分離して、背面の別次元だけというのはないんです。
それは認識の内にある場合は統合作用が起こっていない証拠です。
その見ている自分、認識している自分が落ちた時に、統合される。
別次元の心の力→純粋意識→世界→体→心→頭です。
この内の心と頭が、迷いの世界に入ったのが『自我』の形成なのです。
しかし、この自我は別次元の心の力と純粋意識が、あることを見れない。
そして、見た時に認識も出来ない。
認識している場合は、あとから、それを見ているんです。
体が、世界に溶け込んだ時に、生命力が流れ込んで来て、この力が、天と自己の同一性、つまり世界に気づかせる。
そして、世界=自己が、また手放された時に、意識が現れる。
そして、意識が心に溶け込んだ時に、つまり融合された時に、真我が起きるのだ。
別次元で、目覚めるのですよ。
わしゃあ寝てましたがなあとwwwww
まあ、それは冗談です。
そこには言葉なんか、ありません。
この認識している自己がいなくなったとき、別次元の心と意識と、世界と、体と、心と、頭は、全部、ひとつだと気がつくのです。
そうして目の前を見ると、今まで分離していた、別次元の心と、眼前の風景が、合体するんです!!!!!
それが覚醒です。
世界が空であり、空が世界である。
そして、そこには、分離がないのである。
目の前の自然こそが空である己の実体だったのです。
だから、私を生きているのは、あなたであって、あなたを生きているのが私。
と理屈をつけることも出来ます。
これは、しかし、また手放されなくては成らないですねwwwww
体の力は凄いものです。
その体に生命が宿っているお陰で、この生命力を通して、体験がある。
この生命は天の意識の内に芽生え、その天と世界のエネルギーの中に、心がある。
心は自己の本体である。
この自己の本体である心は、分離されない。
全ての他者、つまり出会ったことすらない、ありとあらゆる全ての他者と交錯、つまり出会っているのです。
この他者の純粋意識が全宇宙です。
この全宇宙はひとつなのです。
ひとつの実体のない、名づけようもない、エネルギーの働き。
すべてがひとつの、ここから、変転している。
だから、違いがあるのは、その、変転の結果である。
変転の結果は、実は、その空性と別物ではないのです。
その別物ではないものを、別物とさせているのが、認識であるのです。
分別です。
しかし、こんなことを書いても役に立たない。
つまり、方法こそが大事なのであって、概念は、つまり事実を言葉にしてしまおうということは、伝達の働きをしない可能性が大である。
眼前の自己を生きるという言葉も虚しいのだ。
実際に、そこに、解放されるには、緊張を取り除くことである。
こころとからだの力を抜くことだ。
このリラックスするということを、実現するために、座禅する。
理解するのは自分ではない。
自分が、コントロールしているという、その自己が安心の中で、静まったとき。
静まって安らかに、在るとき、勝手に起こるのだ。
自分は、何もしていないときに、自然の側が、闇を消去するのである。
闇が光を知らないのである。
光を知ったなら、その光の側が、闇を消去する。
もしも部屋の壁が閉じられていなければ、光は、勝手に闇を消去するのである。
それが融合であり、自我の終焉なのである。
しかし、このことが、終わりではないのである。
また、なんども、なんども、起こる。
生きている限り、何千万回も、帰ってくるようにする。
悟りは、帰ることの、融合の、つまり『道』の始まりなのである。
終わってしまうことはなく、永遠に、これが生きている意味なのだ。
迷っても帰る、怒っても帰る、貪っても帰る。
ずーっと「思い」を手放していくということである。
煩悩が、なくなるわけが、ないのだから(爆笑)