豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

闇が光を知らないのである

2015-03-31 11:45:27 | 読者に人気の記事
・妻の『ダラックマのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。

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こんにちは。

本日は午前10時半ごろに起床しました。

体調が優れない中、洗面をして座禅を15分します。

力を抜いて、お任せして、良質な感覚と幸せの中にいる。

生まれたての頃の、朝の光にふれているように、自然の雰囲気に解ける。

自分を鍛えるのではない。

手放すのが、座禅なのである。



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なんちってw


えーっと、そのあとで、コーヒーを淹れて読書ですね。

たばこも吸う。

外は快晴で太陽の光がポカポカと体を温めてくれる。

鳥のさえずりが聞こえてくる。

目の前の樹は、恐らく、1年でいちばん、花が咲き誇っているような日であろう。

人が隣の道を歩いていく。

菜の花が畑に咲いている。

雀が2羽、砂場の向こうで、じゃれあって遊んでいる。

静かな中で、読書を終えます。


母親がどこかから帰ってきて洗濯物と弁当箱を持っていく。

千鶴さんが帰省しているので、どうも、生活が安定しない。

偉大なる千鶴様wwwww


で、ブログの更新であります。

よく勘違いされるのが、特別に成ることです。

人とは違った存在が、超人が、悟った人と思われる。

そんなことはないと思いますよ、笑

同じである。

同等であるということに気がつくわけであります。

何かに成るために読書や座禅をしていると、力が入ります。

また計算が働いてきます。

すると残念なことに、特別な人が、出てくるのです。

『俺』が悟ったなどと言うwwwww

俺が悟っているときは、それは、失われているんです。

リラックスして、深刻さがなにもない。

真剣に、この、空間に体が溶け込んでいる、心が溶け込んでいることなんです。

どうして、そんな風になるのかというと力を抜いて、『俺』のコントロールをなくしているからなのです。

だから、この状態を『俺』が認識して、分析して、あーだ、こーだやっているということは、それは、落ちていないということの証拠です。

こうすれば、悟れるとか、ないんです。

昨日も書きましたが『緊張』を解くことには様々な方法がある。

どれでもいい。

しつこいですが、俺が悟ったは、新たな自我の活動ですよ。

終わりなき修行は、つまり、なんども帰ることなのであります。

悟った己が再び、自然に帰らないといけない。

しかし、肉体を持って、生きている限り、迷い、怒り、貪る。

再び気づいて帰るのであります。


だから完璧な超人なんていないのであります。

そういう人は、そのように見せているだけです。

気づきの速度が半端なく、瞬時の人は、そうできるでしょう。

己の迷いだと思わないで、迷いがあると見ているからですね。

このような人は、自己と同一化していないのです。


って、また、概念的に発展させようとしてしまいましたが、要するに体の力を抜いていくことなのですよ。

緊張を解いて、いますぐ、リラックスする。

その方法は、自己の『思い』を追いかけないで、手放すことなのです。

それは、心にある、穢れを、落としていくことなのです。


ここで『特別に成ろう』という意識があると、邪魔になるんです。

なんでもない平凡な、いや、罪悪感でいっぱいの、この自分のままで、いいんです。

恐怖や良心の呵責からくる『悲しみ』を流していくことが、いいんです。

これは色々あるじゃないですか。

いつか自分も死んでしまうとか、あんな悪いことをして、どうしようもない救われない自分だとか、まあ、いっぱい抱えている。

それが「思い」として「計算」として、どうしようかと迷わせている。


この思いは感情中枢が思考中枢を乗っ取っているわけです。

しかし、この感情中枢も実は、本能中枢に乗っ取られていたり、動作中枢に乗っ取られていたりするんです。

完全中立なのは、性と、高次感情、高次知性です。

これは生命力と、感受力(気づき)と、純粋意識のことであります。

そして、この生命力と繋がるのは、体なのです。

体が寛ぐことで、頭を離れた感受力が、気づきとして働き出し、この気づきの質が高まることで、純粋意識が現れる。

もともとあるのだが、認識内に入るということである。

通常の意識は、思いによって曇らされているから、普段働いている、繊細な印象に無頓着になっているのです。


植物や動物に対する愛。

また地球や宇宙、天と地にある自然の働きに対する感動。

そういったものは、繊細なる感受性が働いたときに、自分の中に踊りこんでくる。

向こう側から来るんです。

自分がしているのではなく、緊張が解ければ、本来の自己が顔を出すのです。

勝手に!

そこには最初からある、風景、眼前の風景が、そのままある。

この、そのままの、なんの変哲もない、ただの日常。

全く特別ではなく、よくありがちな、平凡な人間としての私。

その、私が、世界だったのです。


そして、この身体の世界は、意識と心が、交錯している出会いの場です。

意識は心の力から生まれ、その心の力は、他者と別次元で、出会っているんです。

不可視の背面空間。

ここにある次元において、生きているんです。

みんなが、そこにいて、生きていても死んでいても、そこにいるんです。

この別次元から働く、心の力が、真の自己が生きている場所です。


しかし、それは分かれていないのです。

そこだけを分離して、背面の別次元だけというのはないんです。

それは認識の内にある場合は統合作用が起こっていない証拠です。

その見ている自分、認識している自分が落ちた時に、統合される。

別次元の心の力→純粋意識→世界→体→心→頭です。

この内の心と頭が、迷いの世界に入ったのが『自我』の形成なのです。

しかし、この自我は別次元の心の力と純粋意識が、あることを見れない。

そして、見た時に認識も出来ない。

認識している場合は、あとから、それを見ているんです。

体が、世界に溶け込んだ時に、生命力が流れ込んで来て、この力が、天と自己の同一性、つまり世界に気づかせる。

そして、世界=自己が、また手放された時に、意識が現れる。

そして、意識が心に溶け込んだ時に、つまり融合された時に、真我が起きるのだ。

別次元で、目覚めるのですよ。

わしゃあ寝てましたがなあとwwwww

まあ、それは冗談です。

そこには言葉なんか、ありません。


この認識している自己がいなくなったとき、別次元の心と意識と、世界と、体と、心と、頭は、全部、ひとつだと気がつくのです。

そうして目の前を見ると、今まで分離していた、別次元の心と、眼前の風景が、合体するんです!!!!!

それが覚醒です。

世界が空であり、空が世界である。

そして、そこには、分離がないのである。

目の前の自然こそが空である己の実体だったのです。

だから、私を生きているのは、あなたであって、あなたを生きているのが私。

と理屈をつけることも出来ます。


これは、しかし、また手放されなくては成らないですねwwwww


体の力は凄いものです。

その体に生命が宿っているお陰で、この生命力を通して、体験がある。

この生命は天の意識の内に芽生え、その天と世界のエネルギーの中に、心がある。

心は自己の本体である。

この自己の本体である心は、分離されない。

全ての他者、つまり出会ったことすらない、ありとあらゆる全ての他者と交錯、つまり出会っているのです。

この他者の純粋意識が全宇宙です。

この全宇宙はひとつなのです。

ひとつの実体のない、名づけようもない、エネルギーの働き。

すべてがひとつの、ここから、変転している。

だから、違いがあるのは、その、変転の結果である。

変転の結果は、実は、その空性と別物ではないのです。

その別物ではないものを、別物とさせているのが、認識であるのです。

分別です。


しかし、こんなことを書いても役に立たない。

つまり、方法こそが大事なのであって、概念は、つまり事実を言葉にしてしまおうということは、伝達の働きをしない可能性が大である。

眼前の自己を生きるという言葉も虚しいのだ。

実際に、そこに、解放されるには、緊張を取り除くことである。

こころとからだの力を抜くことだ。

このリラックスするということを、実現するために、座禅する。

理解するのは自分ではない。

自分が、コントロールしているという、その自己が安心の中で、静まったとき。

静まって安らかに、在るとき、勝手に起こるのだ。

自分は、何もしていないときに、自然の側が、闇を消去するのである。

闇が光を知らないのである。

光を知ったなら、その光の側が、闇を消去する。

もしも部屋の壁が閉じられていなければ、光は、勝手に闇を消去するのである。


それが融合であり、自我の終焉なのである。


しかし、このことが、終わりではないのである。

また、なんども、なんども、起こる。

生きている限り、何千万回も、帰ってくるようにする。

悟りは、帰ることの、融合の、つまり『道』の始まりなのである。

終わってしまうことはなく、永遠に、これが生きている意味なのだ。

迷っても帰る、怒っても帰る、貪っても帰る。

ずーっと「思い」を手放していくということである。

煩悩が、なくなるわけが、ないのだから(爆笑)